名護屋城

『西肥名古屋城豊太閤陣営図』/wikipediaより引用

豊臣家 豊臣兄弟

名護屋城から豊臣軍15万が朝鮮出兵~秀吉が九州に築いた超巨大城郭とは

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名護屋城
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城から直接、船で出撃できる縄張りになっている

名島城は海に突き出た海城です。

小早川隆景といえば、頭が良くて親が金持ち、しかもとてもいいヤツ!

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そんなイメージ(個人の感想です)で、毛利家の瀬戸内方面を水軍で管轄、同家躍進の決定的な戦となった【厳島の戦い】や、織田信長の水軍を手玉にとって大坂の石山本願寺に兵糧を運び入れた「木津川河口」で数々の武功を挙げた海戦のプロです。

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最終的には信長の鉄船(実在したかどうかは不明)に敗れてしまいますが……。

この海の戦いのプロが築城した名島城は、城から直接、船で出撃できる縄張りになっており、名護屋城や朝鮮半島方面の兵站を担う城として活躍しました。

ちなみに「縄張り」とは、お城の堀や門、曲輪などを配置するための設計図です。

「縄打(なわうち)」とも言います。

城を建てるときは、この「縄張」を考えるのが一番ワクワクする瞬間だったでしょうし、現代の我々にとっても当時を考えるのに最も重要なアイテムの一つです。

名護屋城-3

名島城の縄張り

話を名島城と名護屋城に戻しましょう。

輸送の最前線にあった名護屋城。

その後方支援のための名島城は、九州各地から物資が集まる博多に近いだけでなく、大坂から瀬戸内海を通り、博多までの海上輸送ルートが既に確立されていた――ということが重要です。

航海の大部分を占める瀬戸内から下関への海上輸送を考えると、同地方の海を誰よりもよく知る小早川隆景が名島城主になっていたというのも、非常に理に適った選択。

秀吉含め、当時の豊臣政権の本気さが伝わってきますね。

 


韓国に築いた「倭城」……蔚山城や西生浦城など

以下の地図をご覧ください。

名護屋城-4

©2016Google,ZENRIN

名護屋城を拠点に、壱岐に渡ると島の北部に「勝本城(別名「風本城」)」があります。

秀吉が、この地の領主・松浦鎮信に命じて築城させた織豊系の石垣城です。

さらに対馬には、壱岐方面にある厳原(いづはら)港を見渡せる山に「清水山城」があり、対馬の北部、ココからはいよいよ朝鮮半島へ出撃!という港に「撃方山城(うつかたやまじょう)」という最前線の城があります。

これら対馬の城もすべて秀吉の命令で、最新の石垣技術により改修された織豊系の城郭です。

撃方山城の麓にある大浦湾を出発して、朝鮮半島南部に上陸した日本の諸将は、半島に橋頭堡を築くため朝鮮各地にも最新技術で城を築きます。

韓国では「倭城」と呼ばれ、加藤清正の「蔚山城(うるさんじょう)」や「西生浦城(せいせいほじょう)」が有名。

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石を垂直に積む明や朝鮮式の石垣とは違い、傾斜をつけて積み上げる日本独特の石垣建設には強度があり、朝鮮半島には無い日本独自の築城術(なので韓国ではあえて「倭城」と呼びます)として、朝鮮半島の城とは明確に分類されています。

名護屋城-4.5

石垣の傾斜は日本の城の特徴でした

このように、秀吉の城郭戦略は、名護屋城を大本営として朝鮮半島までの最短コースを確保。

後方の補給基地に名島城、前線のつなぎの城として壱岐に「勝本城」、対馬に「清水山城」と「撃方山城」を配し、さらには上陸先の朝鮮半島南部・各地に最前線の城を築きました。

名護屋城の周辺には、全国の大名が名護屋城を取り囲むように陣所を構え、城下町もできるほどの賑わいを見せました。

城内では茶会や、大河ドラマでも放映された仮装大会(真田昌幸豊臣秀吉の演目「瓜売」が被ったお話)が行われたり、遊興の場としても盛り上がりを見せました。

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しかし、忘れてならないのは、名護屋城はあくまで明国攻めの軍事基地であるということです。

西国一の商業地・博多とは一線を画す「戦いのための城」だったことを今一度念頭に入れ、次へ進みましょう。

 


大坂城に次ぐ日本で二番目の大城郭・名護屋城

名護屋城は築城当時、大坂城に次ぐ日本で“二番目”の大城郭でした。

小高い山の上に築城されていて、ここから玄界灘を見渡すこともでき、さらには波の音が聞こえるリゾートホテルばりのオーシャンビュー♪

名護屋城天守台

名護屋城天守台

しかし不思議なことがあります。

実際に、名護屋城を訪れたことがある人は分かると思いますが、現代でも陸地を通って同城跡に向かうルートは、狭く起伏の多い道になります(唐津から先)。

城には必ずそこに築かれた理由がありますが、何故こんな辺境の地(地元の方々、ほんとに何度もすみません)なのか。

半島への渡海最短ルートとはいえ、この地に秀吉が豪華な城を築城したのが不思議でならないのです。

秀吉はなぜこの地に名護屋城を建てたのか?

絵・小久ヒロ

日本において大城郭と呼ばれる城は、街道筋や大きな商業地や港に築城されるもので、古来から人の往来が盛んな場所に築城されてきました。

しかし名護屋は明らかにメインの街道筋から外れており、港も小さな漁村で大商業地でもありません。

そうした印象が、我々が漠然と名護屋城に対して抱く違和感の正体ではないでしょうか?

名護屋城築城時にはわざわざ唐津から「太閤道」と呼ばれる街道を通すなど、何もかも人工的。とはいえ周辺は陸よりも海上ルートの方が発展しており、名護屋城も海上から向かうと非常にスムーズです。

実際、名護屋城の築城された地には、この海域一帯を縄張りとする松浦党の城「垣添城」があり、水軍城として玄界灘を通過する船を監視していました。

監視――。

そうです。名護屋は単なるオーシャンビューの地ではなかったのですね。

ちなみに秀吉も名護屋城には筑前の深江という場所から船で向かっています。

現代の我々は、つい陸地の道で考えてしまいますが、戦国の城や街を考える際、海上からの視点を考えると、合点が行くことが多々あります。特に水軍が発展した地域や古い港町はその典型です。

小田原征伐】が明国攻めの予行演習とされるのも、小田原までの膨大な物量を海上の輸送ルートでまかなったこと、そしてそれが大坂から瀬戸内海を通り博多を経由して名護屋に至る海上ルートでいかされていることも理由の一つでしょう。

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以上を踏まえると名護屋城の全貌も見えてきます。

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