豊臣秀長(羽柴秀長)

豊臣秀長(羽柴秀長)/wikipediaより引用

豊臣家

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟』の主役・豊臣秀長とは?天下人の兄を支えた偉大なるNo.2

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豊臣秀長
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浅井攻めで大きな戦功! 農民の扱いにも長けていた

天正元年(1573年)夏。

浅井氏の本拠・小谷城を攻めるときには、秀長も留守居ではなく参戦しました。

このときの秀吉隊は、裏側から城に攻め込み、本丸と京極丸を分断するという大役を与えられます。秀吉は弟に、その一番手を命じました。

そしてこの大仕事を秀長は見事に完遂します。

落城寸前には蜂須賀小六と共に浅井長政の下へ出向き、長政へ嫁いでいたお市の方と三人の娘たちを織田方に引き渡すよう、説得しています。

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こうして小谷城攻めにおいて、いくつもの功績を挙げた秀吉隊。

当然、褒美は大きなものでした。

秀吉は小谷城と周辺の三郡を与えられ、12万石の大名となります。しかし小谷城は典型的な山城でしたので、平時の統治には向きません。

そこで秀吉は、琵琶湖に近い今浜の地に新しい城を築くことにしました。

また、信長から一字貰う形で、今浜を「長浜」と改めています。

築城というのは大規模な公共事業のようなものですから、周辺の農民を徴用するのが普通でしたが、それでは本業の農作業に支障をきたしかねません。

秀吉は「工事は二年間、その間に工事へ参加した農民は税や年貢を免除する」という条件を出しました。

田畑を家の者に任せて、自分は工事に行けば税の負担が大幅に減るのですから、これが農民に大人気。あまりに人が来るので、逆に規制するほどだったといいます。

この辺りのさじ加減は、農民生活の長かった豊臣秀長の経験も活かされたと目されます。

 

戦国一の転職王・高虎とも相性バッチリ!

秀吉も大名となったからには、これよりもさらに多くの家臣を召し抱えないと、仕事が回りません。

秀吉の重臣である秀長にも、相応の人手が必要になります。

この時期に秀長の家臣となった人のうち、有名なのがあの藤堂高虎です。

この二人、能力もさることながら、性格的にも非常に相性のいい主従でした。詳しいエピソードについては、高虎の記事をご参照ください。

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この辺りからしばらく、秀長個人の功績と確定できる話題は間が空きます。

長篠の戦い】や【越前一向一揆】、あるいは【安土城普請】などに秀吉が参加していますので、当然、秀長もその手足となって働いていたでしょう。

安土城普請の際は、信長から秀長への褒美として、小袖(着物)が与えられています。

また、秀吉が越前へ出陣している間に起きた天正2年(1574年)の長島一向一揆との戦では、秀長が代理として参戦していました。

この戦は、たびたび一揆勢に辛酸を嘗めさせられていた信長が、「今度こそ!」と気合を入れてとりかかったものです。

織田家の総力を結集したといっても過言ではない陣容でしたが、それだけに抵抗も大きく、織田氏の親族も多数討死しました。

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生野銀山への攻撃を進言

天正五年(1577年)には、能登七尾城からの救援要請に応じ、北陸へ出陣する軍の一員として加わっています。

しかし、このときは秀吉が総大将の柴田勝家と仲違いし、途中で勝手に引き返してしまったため、戦功は挙げていません。

当然、秀吉は信長から大目玉を食らいました。安土へ詫びを入れにいくときも、秀長が同行していたといいます。

柴田勝家は、秀吉のいなくなった後、上杉謙信を相手に【手取川の戦い】で大敗しますが、幸い、このとき大きな処罰はありませんでした。

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むろん、秀吉の立場からすると、甘えてはいられません。次に何らかの失態を演じれば、間違いなく処分が下ったでしょう。

そこで、秀吉は中国地方攻略のために奔走し、このとき柱となったのが秀長と竹中半兵衛でした。彼らは秀吉に先行する形で中国に赴き、現地の情勢を調べて戦略を立てます。

カギとなったのは生野銀山――平安時代から採掘されていたともいわれる、非常に歴史の古い銀山です。

また、銀は、当時の通貨としても重宝されていましたから、ここを得るだけでも十分な手柄といえます。

秀長は「最初に生野銀山を手に入れましょう」と秀吉に勧め、そのため但馬攻略をすべきと進言。秀吉は納得し、秀長に但馬の諸城を攻略させます。

秀長は城を攻め落としはしたものの、地侍たちの所領を安堵し、寛大な態度を見せたので、うまく事が進んだようです。

そのため、生野銀山の採掘にもすぐに着手できました。

 

鳥取城攻撃の総大将

天正六年(1578年)からは、毛利氏に通じた別所長治を討つため、三木城(三木市)攻略に取り掛かります。

このときは三木城攻略に参加していた荒木村重が謀反を起こし、それに呼応して丹波の波多野氏が裏切るなど、秀吉軍は多忙を極めました。

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目まぐるしく情勢が変わる中、秀長は波多野攻めを担当しています。

そして天正八年(1580年)1月。

別所長治が自害したことで、ようやく三木城攻略(三木合戦)は終結します。

これによって播磨を手中に収めた秀吉は、姫路に城を築いて足がかりにしようと考えました。

一方、秀長は天正九年(1581年)6月、鳥取城攻撃の総大将として出陣します。

この戦は「鳥取の飢え殺し」と呼ばれる苛烈な兵糧攻めで有名ですが、実は秀長の献策によるものだったという説も。

どうすれば付近の住民たちを城へ追い込み、兵糧の消費を早めることができるか。秀長の出自が農民であるだけに、その辺もうまくやっていたのかもしれません。

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続いて備中高松城の水攻めが始まりますが、こればかりは守将の清水宗治が勇将だったこともあり、一筋縄では行きませんでした。

秀吉は信長に対し、援軍を求める使者を派遣。

信長は、援軍の第一陣を明智光秀に命じ、自らも後から追いつくべく、京都で準備を整えます。

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なんせ備中高松城を攻略すれば、毛利氏の本拠である吉田郡山城までの距離がまた一段と縮まる場面です。

城主・清水宗治は、当主の毛利輝元や「毛利両川」こと吉川元春小早川隆景などからも信頼されており、この城の攻略が精神的ダメージを与えることも期待できました。

しかし、ここで予想だにしなかった凶事が起きます。

本能寺の変】でした。

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