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【大野治長】
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江戸の徳川と大坂の豊臣に別れて
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなりました。
大野治長は、秀吉の遺児である豊臣秀頼の側近として仕え続けます。
この年の重陽の祝いに際し、家康暗殺計画についての捜査が実施されると、治長もこの企てに関与したとされ、下総国の結城秀康のもとへお預けという事態に陥りました。
治長と似た立ち位置にいた織田有楽は、秀吉の死後、早々と家康に接近。
家康を害する動きがあれば、ぬかりなく密通し、信用を得る努力を重ねています。
一方で、治長には、そうした狡猾さは見えてこない。
慶長5年(1600年)【関ヶ原の戦い】では、東軍の福島正則隊に属して武功を上げ、合戦後は家康の使者として大坂城に向かい、そのまま残ります。
淀殿と秀頼のそばで、平穏な日々はしばらく続きました。
しかし、この江戸と大坂に別れた体制は非常に危うく、いずれ破綻するという見方もでてきます。
例えば慶長6年(1601年)、陸奥の戦国大名である伊達政宗が、今後についての考えを今井宗薫宛書状に書き記しています。
・大坂城という大要塞
・関白の子という大義名分
・乱世で主君を失った浪人たち
こうした条件を鑑みて、政宗は秀頼を城から引き離し、せめて伏見なり江戸に置くことを提案していたのです。
事はもはや秀頼一人の器量の問題ではない、大坂と江戸という体制そのものが火薬庫のようなものだ――政宗はそう考えていたのでしょう。
大野治長や淀殿にもこうした危機感があれば、その後の時代も大きく変わっていたに違いありません。
しかし、大坂には政宗ほどの危機感を持つ者がおらず、表面上、穏やかな日々は続いてゆきました。
ねらわれる大坂
慶長16年(1611年)、後陽成天皇の譲位に伴い、徳川家康が上洛。
同時に豊臣秀頼との面会を大坂方に要求しました。
淀殿はじめ、大坂城から出すことを嫌がる意見はありましたが、今回は秀頼も上洛し、家康との対面を果たします。
ここで立派な青年に育った秀頼を見て、年老いた家康が危機感を募らせる描写はフィクションでは定番です。
両者の年齢差といった要素だけでなく、朝廷や公家に対しても影響を及ぼしていた秀頼。
若く秀吉の血を引く者が、それなりの器量を見せたのであれば、家康が危険を感じてもさほど不思議ではないでしょう。
事態が大きく動くのは、3年後の慶長19年(1614年)。
有名な【方広寺鐘銘事件】が起きます。
大坂城の淀殿と秀頼は、もともと寺社造営に注力していました。
とりわけ秀吉のはじめた方広寺大仏殿造営は、京都地震や火災により頓挫していて、その完成は悲願でもあった。
しかしここで鐘銘文が問題視されます。
国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている
君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める
いかにも家康側が難癖をつけたようにも見えますが、実際に銘文を考えた文英清韓が、敢えて書いたとされます。
動機は不明。
それでも家康を怒らせたとあれば、弁明せねばらないということで、駿府へ向かった大坂方の武将が片桐且元でした。
豊臣恩顧の片桐且元が家康と淀殿の間で板挟み~だから「大坂冬の陣」は勃発した
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同時に淀殿も、治長の母にあたる大蔵卿局ら三名の女性を使者として駿府に派遣しています。
しかし、家康との交渉を終え、且元が大坂へ持ち帰った和解案は、城内で物議を醸すのでした。
以下の通り、
豊臣秀頼に他と同じく一大名としての扱いが提示されたのです。
徳川家康を相手に片桐且元がまとめた内容は、豊臣家存続を考えれば致し方ない内容とも見て取れる。
それでも大蔵卿局たちは且元に大きな不信感を抱きます。
結局、城内の圧力に耐えきれなくなった且元は、淀殿の制止も振り切り、大坂を離れるのでした。
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