大野治長

大野治長/wikipediaより引用

豊臣家

大野治長の生涯|淀殿の密通相手と噂された豊臣方最後の戦国武将

2025/05/08

慶長20年(1615年)5月8日は大野治長の命日です。

落城する大坂城で豊臣秀頼や淀殿に最期まで付き添い、自害した戦国武将であり、残念ながら不名誉な噂話が今なお囁かれたりします。

実は豊臣秀頼の父親だったのではないか――。

いかにもゴシップ的な話であり、今となっては真偽の確認は難しいですが、当時からそう囁かれ、さらには大坂の陣で彼女と共に散ったことから後世の我々も想像をかき立てられてしまうのでしょう。

では実際の大野治長とはどんな人物だったのか。

なぜ大坂城で自害したのか。

大野治長/wikipediaより引用

その生涯を振り返ってみましょう。

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淀殿の乳母子(めのとご)

大野治長の生涯はなかなか謎に包まれています。

ただ確実に言える大事なことが一つ。

彼が、淀殿の乳母子(めのとご)だったことです。

淀殿のような貴人は面倒を見る女性がいて、乳母(めのと)と言い、その子供が乳母子。

日本史においては非常に重要な存在であり、例えば昨年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、源頼朝の乳母子である山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)が登場しました。

平家側についた経俊は、対立した頼朝のことを散々馬鹿にして矢まで放ち、最終的に捕らえられるのですが、その母であり頼朝の乳母でもある山内尼が必死に助命嘆願をして彼の命は救われています。

同ドラマの登場人物ですと、木曽義仲の乳母子にあたる今井兼平は、主君に寄り添い続けた忠臣として有名です。

今井兼平と木曽義仲/wikipediaより引用

当時、こうした乳母や乳母子などが重要視されたのはなぜか?

平安末期から鎌倉時代初期は生きることそのものが厳しい時代であり、生存率を上げるため貴人の養い親は多い方がいいと考えられました。

乳母は、実際に乳を与えるだけではなく、養育という意味合いもあったのです。

戦国時代も同様に乳母や乳母子が重要視され、存在感を見せています。

有名なところでは織田信長の乳母子である池田恒興でしょうか。

あるいは姉と弟二人で伊達政宗を守っていた片倉喜多と片倉景綱綱小十郎もよく知られ、大野治長もそうした人物の一人でした。

父が大野定長で、母が大蔵卿局。

この大蔵卿局が淀殿の乳母となっていたのです。

治長の生まれは不明ながら、永禄12年(1569年)生誕の淀殿と同年代と推察されます。

幼くして浅井家が滅んだ淀殿にとって、その頃のことを知る大蔵卿局と治長は、心許せる相手であったことでしょう。

大野氏は織田家に属し、母である市が浅井家に嫁ぐ際についていったと思われます。

淀殿の母であるお市の方/wikipediaより引用

 


淀殿と行動を共にする

前述の通り、武将としての大野治長についての勲功は不明です。

ただし、乳母子として淀殿のそばに付かず離れずいたことは推察できる。

織田の血を引く親族として淀殿の側にいた織田有楽(有楽斎)と同じく、目立つことなく彼女の周辺にいたのでしょう。

織田有楽斎/wikipediaより引用

そして淀殿が豊臣秀吉の寵愛を受けるようになると、治長も馬廻に登用されたようで、後の出世は、淀殿に対する秀吉の寵愛の深さと比例してゆきます。

淀殿が秀吉念願の男児である鶴松を産むと、治長には丹後大野城が与えられました。

鶴松や淀殿のそば近くにいる彼は茶道に長けていたとされます。織田有楽(有楽斎)も茶人として有名ですよね。

両者共に優雅な文化人として淀殿のそばにいたのでしょう。

 

文禄の役や小田原合戦に在陣

大野治長に武将としての働きがなかったわけではありません。

【文禄の役】や【小田原合戦】にて在陣。

いずれも淀殿が秀吉に伴われ、治長の行動も一致するため、あのゴシップも生まれてきたのでしょう。

天正19年(1591年)に鶴松が数え3つで夭折すると、

豊臣鶴松/wikipediaより引用

翌年末には、名護屋にいた淀殿がまたしても懐妊。

そして文禄2年(1593年)、二人目の男児である拾(後の豊臣秀頼)を産んだのです。

当時から、淀殿の腹の子は秀吉ではなく別人の子とされ、様々な噂が取り沙汰されました。

そして以下のように条件を絞っていくと

・淀殿と年齢が近い

・淀殿と親しい

・淀殿とつかず離れず行動していて、懐妊時もそばにいる

父親に合致する代表格が大野治長となってしまう。

こうした状況証拠により「治長が淀殿の密通相手である」という噂は当時から流れたのでした。

 

江戸の徳川と大坂の豊臣に別れて

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなりました。

大野治長は、秀吉の遺児である豊臣秀頼の側近として仕え続けます。

豊臣秀頼/wikipediaより引用

しかし、この年の重陽の祝いに際し、家康暗殺計画についての捜査が実施されると、治長もこの企てに関与したとされ、下総国の結城秀康のもとへお預けという事態に陥ります。

治長と似た立ち位置にいた織田有楽は、秀吉の死後、早々と家康に接近。

家康を害する動きがあれば、ぬかりなく密通し、信用を得る努力を重ねていました。

一方で、治長には、そうした狡猾さは見えてこない。

慶長5年(1600年)【関ヶ原の戦い】では、東軍の福島正則隊に属して武功を上げ、合戦後は家康の使者として大坂城に向かい、そのまま残ります。

淀殿と秀頼のそばで、平穏な日々はしばらく続きました。

しかし、この江戸と大坂に別れた体制は非常に危うく、いずれ破綻するという見方もでてきます。

例えば慶長6年(1601年)、陸奥の戦国大名である伊達政宗が、今後についての考えを今井宗薫宛書状に書き記しています。

・大坂城という大要塞

・関白の子という大義名分

・乱世で主君を失った浪人たち

こうした条件を鑑みて、政宗は秀頼を城から引き離し、せめて伏見なり江戸に置くことを提案していたのです。

伊達政宗/wikipediaより引用

事はもはや秀頼一人の器量の問題ではない、大坂と江戸という体制そのものが火薬庫のようなものだ――政宗はそう考えていたのでしょう。

大野治長や淀殿にもこうした危機感があれば、その後の時代も大きく変わっていたに違いありません。

しかし、大坂には政宗ほどの危機感を持つ者がおらず、表面上、穏やかな日々は続いてゆきました。

 


ねらわれる大坂

慶長16年(1611年)、後陽成天皇の譲位に伴い、徳川家康が上洛。

同時に豊臣秀頼との面会を大坂方に要求しました。

淀殿はじめ、大坂城から出すことを嫌がる意見はありましたが、今回は秀頼も上洛し、家康との対面を果たします。

徳川家康/wikipediaより引用

ここで立派な青年に育った秀頼を見て、年老いた家康が危機感を募らせる描写はフィクションでは定番です。

両者の年齢差といった要素だけでなく、朝廷や公家に対しても影響を及ぼしていた秀頼。

若く秀吉の血を引く者が、それなりの器量を見せたのであれば、家康が危険を感じてもさほど不思議ではないでしょう。

事態が大きく動くのは、3年後の慶長19年(1614年)。

有名な【方広寺鐘銘事件】が起きます。

大坂城の淀殿と秀頼は、もともと寺社造営に注力していました。

とりわけ秀吉のはじめた方広寺大仏殿造営は、京都地震や火災により頓挫していて、その完成は悲願でもあった。

しかしここで鐘銘文が問題視されます。

国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている

君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める

いかにも家康側が難癖をつけたようにも見えますが、実際に銘文を考えた文英清韓が「敢えて書いた」とされます。

動機は不明。

それでも家康を怒らせたとあれば、弁明せねばらないということで、駿府へ向かった大坂方の武将が片桐且元でした。

 

且元が持ち帰った和解案が物議を醸し

片桐且元が駿府へ派遣されると同時に、淀殿も、治長の母にあたる大蔵卿局ら三名の女性を使者として駿府に派遣します。

しかし、家康との交渉を終え、且元が大坂へ持ち帰った和解案は、城内で物議を醸すのでした。

以下の通り、

・秀頼は大坂城を出て、伊勢か大和へ移る

・秀頼は他の大名のように、駿府と江戸に参勤する

・大政所を人質とした秀吉にならって、淀殿を人質とする

豊臣秀頼に他と同じく一大名としての扱いが提示されたのです。

徳川家康を相手に片桐且元がまとめた内容は、

片桐且元/wikipediaより引用

豊臣家存続を考えれば致し方ない内容とも見て取れる。

それでも大蔵卿局たちは且元に大きな不信感を抱きます。

結局、城内の圧力に耐えきれなくなった且元は、淀殿の制止も振り切り、大坂を離れるのでした。

 


大坂冬の陣

且元の退去により交渉は途絶え、互いの不信感が限界を超えてしまったのか。

翌慶長19年(1614年)10月2日――大坂城から豊臣恩顧の将たちに檄文が飛ばされ、ついに【大坂冬の陣】が始まります。

怒濤に翻弄されるように、大野治長は大坂籠城戦の指揮を執ることになりました。

弟・大野治房と大野治胤も兄と共に戦うことを選びます。

こうして集まった中には、かつて治長と共に馬廻をつとめていた真田信繁(真田幸村)もいました。

真田信繁(真田幸村)/wikipediaより引用

血気盛んな意見に押され、なし崩し的に始まったような大坂冬の陣。

当初は真田丸などの局地戦で大坂方も奮闘しますが、いざ和睦交渉となると、双方の主張が食い違いなかなか締結に至りません。

そこで家康は、イギリスからやってきた大砲で城を攻撃――これには大坂方も計り知れないショックを受けます。

あまりの衝撃に慄く淀殿は、和睦交渉を受け入れるしかありません。

12月8日から12日にかけ、大野治長は織田有楽斎と共に大坂方代表として、徳川方の本多正純、後藤光次らとの交渉に臨みました。

和睦の条件として治長は二男を人質に出します。

しかし、大坂城内には和睦に納得できない者も多数います。

徳川との交渉では、齟齬もありました。その代表的なものが「大坂城の城割り(城としての防衛機構破壊)」です。

家康は、本丸だけを残し、城塞としての機能を奪うことを意図していた。

一方で大坂方は、象徴としての儀礼的なものだと甘く見ていた。

あっという間に堀を埋められ裸城にされ、大坂方が怒りと不信感を募らせても不思議はありません。

織田有楽斎は『もはやこれまで……』と見切りをつけ、徳川方と気脈を通じた上で、二男を連れて大坂から去りました。

 

大坂夏の陣

翌慶長20年(1615年)5月、【大坂夏の陣】が始まります。

大野治長は各地を転戦しました。

出馬をしない豊臣秀頼に代わり、総大将な役回りを担い、徳川軍を相手に奮戦。

秀頼は本人が希望しても出陣には至らず、手負いの治長が指揮を執り続けました。

『もはや勝てぬ……』

そうなると秀頼の正室で、家康の孫である千姫を交渉役として、淀殿と秀頼の助命ができないものか?と道を探りつつありました。

家康の孫である千姫/wikipediaより引用

しかし事ここに至って、そのような願いは叶いません。

5月8日、大坂城内から火の手が上がりました。

治長は、淀殿と秀頼と共に、山里郭にある糒蔵(ほしいぐら)へ。

千姫は侍女の機転で立ち去り、全ての望みは絶たれました。

悔しがる淀殿に、治長はこう声をかけます。

「両御所(家康・秀忠)を敵に回して天下を争うのであれば、御覚悟はあられたことでしょう」

治長は念仏を唱え、自害する主君の介錯をしました。

そして母・大蔵卿局、長男の治徳とともに、彼は主君に殉じたのです。

淀殿と同じ年齢であれば享年47とされます。

 


評価されにくい不運な人物

大野治長の評価は厳しいものがあります。

近い立ち位置である織田有楽斎は、そつなく徳川に接近し、大坂城を脱出。

茶人として悠々自適の暮らしをし、国宝となる茶室や「有楽町」という地名を残しています。

そんな有楽斎と比べると、治長は和平交渉役としての器量も、立ち回りも、そこまでうまくないように思ってしまう。

それこそ大坂の危険性を早々に察知していた伊達政宗からすれば「無為無策で滅びたどうしようもない奴」という評価にでもなるのでしょう。

大坂城

将としての活躍も、真田信繁のような伝説的勇者と比べるとあまりに影が薄い。

どうしても淀殿のそばで右往左往する無能な人物という評価がつきまといます。

極めつけが「淀殿の密通相手」という噂でしょう。

悪意あるゴシップであり、状況証拠からの逆算とはいえ、あまりに印象が強い。そのためか映像化される場合は美男であることが定番です。

【大坂の陣】には欠かせぬ人物であるため、大河にもよく出てきます。

『真田丸』では今井朋彦さんが中間管理職のような苦悩を体現していました。

『どうする家康』の玉山鉄二さんは、美男という定番路線に加え、猛々しさも持ち合わせた気骨ある武士のように見えました。

家康と直接対峙したときには「治長のほうが断然迫力ある」という感想も聞かれたほど。

2023年を機にフィクションでの大野治長は上方修正されたかもしれません。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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