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【大野治長】
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大坂の陣に殉じる
且元の退去により交渉は途絶え、互いの不信感が限界を超えてしまったのか。
翌慶長19年(1614年)10月2日――大坂城から豊臣恩顧の将たちに檄文が飛ばされ、ついに【大坂冬の陣】が始まります。
怒濤に翻弄されるように、大野治長は大坂籠城戦の指揮を執ることになりました。
弟・大野治房と大野治胤も兄と共に戦うことを選びます。
こうして集まった中には、かつて治長と共に馬廻をつとめていた真田信繁(真田幸村)もいました。
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血気盛んな意見に押され、なし崩し的に始まったような大坂冬の陣。
当初は真田丸などの局地戦で大坂方も奮闘しますが、いざ和睦交渉となると、双方の主張が食い違いなかなか締結に至りません。
そこで家康は、イギリスからやってきた大砲で城を攻撃――これには大坂方も計り知れないショックを受けます。
あまりの衝撃に慄く淀殿は、和睦交渉を受け入れるしかありません。
12月8日から12日にかけ、大野治長は織田有楽斎と共に大坂方代表として、徳川方の本多正純、後藤光次らとの交渉に臨みました。
和睦の条件として治長は二男を人質に出します。
しかし、大坂城内には和睦に納得できない者も多数います。
徳川との交渉では、齟齬もありました。その代表的なものが「大坂城の城割り(城としての防衛機構破壊)」です。
家康は、本丸だけを残し、城塞としての機能を奪うことを意図していた。
一方で大坂方は、象徴としての儀礼的なものだと甘く見ていた。
あっという間に堀を埋められ裸城にされ、大坂方が怒りと不信感を募らせても不思議はありません。
織田有楽斎は『もはやこれまで……』と見切りをつけ、徳川方と気脈を通じた上で、二男を連れて大坂から去りました。
そして翌慶長20年(1615年)【大坂夏の陣】が始まります。
大野治長は各地を転戦しました。
出馬をしない豊臣秀頼に代わり、総大将な役回りを担い、徳川軍を相手に奮戦。
秀頼は本人が希望しても出陣には至らず、手負いの治長が指揮を執り続けました。
『もはや勝てぬ……』
そうなると秀頼の正室である千姫を交渉役として、淀殿と秀頼の助命ができないものか?と道を探りつつありました。
しかし事ここに至って、そのような願いは叶いません。
5月8日、大坂城内から火の手が上がりました。
治長は、淀殿と秀頼と共に、山里郭にある糒蔵(ほしいぐら)へ。
千姫は侍女の機転で立ち去り、全ての望みは絶たれました。悔しがる淀殿に、治長はこう声をかけます。
「両御所(家康・秀忠)を敵に回して天下を争うのであれば、御覚悟はあられたことでしょう」
治長は念仏を唱え、自害する主君の介錯をしました。
そして母・大蔵卿局、長男の治徳とともに、彼は主君に殉じたのです。淀殿と同じ年齢であれば享年47とされます。
評価されにくい不運な人物
大野治長の評価は厳しいものがあります。
近い立ち位置である織田有楽斎は、そつなく徳川に接近し、大坂城を脱出。
茶人として悠々自適の暮らしをし、国宝となる茶室や「有楽町」という地名を残しています。
そんな有楽斎と比べると、治長は和平交渉役としての器量も、立ち回りも、そこまでうまくないように思ってしまう。
それこそ大坂の危険性を早々に察知していた伊達政宗からすれば「無為無策で滅びたどうしようもない奴」という評価にでもなるのでしょう。
将としての活躍も、真田信繁のような伝説的勇者と比べるとあまりに影が薄い。
どうしても淀殿のそばで右往左往する無能な人物という評価がつきまといます。
極めつけが「淀殿の密通相手」という噂でしょう。
悪意あるゴシップであり、状況証拠からの逆算とはいえ、あまりに印象が強い。そのためか映像化される場合は美男であることが定番です。
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【大坂の陣】には欠かせぬ人物であるため、大河にもよく出てきます。
『真田丸』では今井朋彦さんが中間管理職のような苦悩を体現していました。
『どうする家康』の玉山鉄二さんは、美男という定番路線に加え、猛々しさも持ち合わせた気骨ある武士のように見えました。
家康と直接対峙したときには「治長のほうが断然迫力ある」という感想も聞かれたほど。
2023年を機にフィクションでの大野治長は上方修正されたかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田千鶴『淀殿』(→amazon)
別冊歴史読本『太閤秀吉と豊臣一族』(→amazon)
新人物往来社『豊臣秀吉事典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他