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【秀吉の財力】
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明は海外からの銀が必要だった
言うまでもなく、貴金属は世界中で採掘されています。
当然、歴史が古い文化圏では、早くから採掘が開始され、尽きてしまう問題に直面する――中国がまさしくこの典型でした。
交易をする上で、早々に金銀が尽きてしまうとなると困ってしまう。
では、何で補うか?というと、中国には絹がありました。
だからこそ【シルクロード】という交易路も成立し、引き換えに貴金属を輸入に頼ることになります。
要は、国内の需要と供給が一致しないわけで、こんな状況が続けばいずれ行き詰まってしまう……。
それを憂慮した宋では、紙幣の原型【交子(会子)】を発行しました。
金属製の貨幣と交換する仕組みであり、後の元でも【交鈔(こうしょう)】という紙幣を発行し、続く明では【大明宝鈔(宝鈔)】が作られました。
しかし、その価値はどんどん下落してしまいます。
なぜなら紙幣は国家の信頼度に依存するからです。
漫画『北斗の拳』で、象徴的なシーンがありましたよね。
核戦争によって無政府状態になった世界で、モヒカンチンピラが紙幣をばら撒きながらこう言ってました。
「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしねぇってのによぉ!」
明代でも時代が降ると【大明宝鈔(宝鈔)】は「ケツを拭く紙にもなりゃしねぇ」ものと化します。なんせ次の王朝「清」では、はなから紙幣発行をしなかったほどです。
明の日常生活で流通していた貨幣は【銅銭】です。
ただし、高額取引で持ち歩くのは厳しく、紙幣は紙クズですから、そこで用いられたのが【銀】でした。
当時は、スペインやポルトガルがアメリカ大陸から【銀】を採掘していた時代。
【大航海時代】がこの背景にあり、実は日本でも【銀山開発】ラッシュを迎えつつありました。
金銀ラッシュの戦国時代
【砂金】と【銀】の違いは何なのか?
鎌倉時代でも砂金は取れていたのに、なぜ銀は採掘されなかったのか?
大きな違いは採掘技術です。
日本には当初その技術がありませんでした。
しかし、明の【海禁政策】が東アジアにおける非合法かつ水面下での交流を促進させ、【銀】の需要が増大するにつれ、明や朝鮮から銀の採掘技術が日本にも伝わりました。
掘り出した銀で明や朝鮮と交易できる――となると、室町幕府を経由する意味はなくなり、経済力も蓄えられた結果、幕府による秩序は崩壊してゆきます。
結果、戦国時代は混乱の極みに突入するのです。
日本国内で流通する貨幣は、明からの銅銭。
戦国大名は自領で金銀を採掘。
海沿いの戦国大名は【倭寇】を駆使して明と貿易している。
多様化するカネの動きを制御できず、幕府は存在価値を失っていった――と同時にカネのある戦国大名が軍事力を持つことにも至り、領内に金銀山があるかどうか、というのも下剋上の大きな要素となったんですね。
たとえ火山や日照時間、豪雪などの影響で、耕作に不利な土地の領主だとしても、金銀山さえあれば力を蓄えられる。
永楽通宝を旗印に掲げて経済を重視していた織田信長が、そこに目をつけていないはずがありません。
信長は天正8年(1580年)、但馬を支配すると秀吉に所領として与えました。
そこには生野銀山がありました。
新技術を導入し、銀山を有した秀吉は、莫大な力を蓄えていきます。
秀吉といえば黄金の茶室が有名であり、成金趣味の権化ともされますが、果たしてそれは正しい評価なのか。
日本全土の統一により各地の金銀を把握し、新技術を用いて採掘量を飛躍的に高める。
その堂々たる証として、あの茶室は存在したとも言えるでしょう。
秀吉の金銀掌握による象徴は、茶室だけにとどまりません。
日本古来の通貨と言えば、8世紀の【和同開珎(わどうかいちん)】が有名ですよね。
実はその後も銅銭は発行されましたが、全国には流通せず、平清盛が【宋銭】を輸入して通用させたことは画期的でした。
日本では、長らく中国の通貨に頼り、それが豊臣秀吉の天下統一を経て、全国区の通貨が作られるようになります。
現存する貨幣の中で最大とされる【天正大判(てんしょうおおばん)】です。
確かに天正大判は世間一般で流通した金貨ではなく、主に武将への褒美などに限られていましたが、手にした者は「これが天下人か……」と圧倒されたことでしょう。
日本全国の金銀を抑え、どこであろうと通用する貨幣を作る。
それは新時代の到来でもありました。
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