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【末森城の戦い】
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搦め手から本丸へ入城
『花の慶次』では、前田利家の優柔不断ぶりが存分に描かれているが、史実では、迅速に行動を起こしていた。
9月9日14時、佐々成政が末森城から約4.5キロ離れた坪井山に本陣を構える。
翌10日、佐々軍が攻撃開始。
その日の14時頃、金沢城の前田利家へその一報が伝わった。
それを受け、利家が金沢城を出発したのが、それからわずか2時間後の16時だ。
息子の前田利長軍と津幡城で合流し、出発したのが23時で、明くる9月11日の早朝4時には、末森城から1.5キロ西方に到着し、反撃を開始している。
前田軍は末森城の搦め手から本丸へ入城し、見事24時間以内に電光石火の救援を果たしたのである。
この史実だけでも、末森城が前田家にとっていかに重要な城であったかお分かりであろう。
前田家の援軍が来る方向に小便鉄砲をドバ~!!
ちなみに、もう一つツッコミポイントがあるので触れておきたい。
それは末森城の造り(縄張り)である。
当時の末森城は、戦国時代の一般的な山城と大差はない。
交通の要衝を守る最前線の城であるから、居住性よりも戦闘を意識した造りだったであろう。
土塁で曲輪を形成し、畝堀を巡らせた城だったと推察している。
しかし漫画では、山間の平山城で、本丸に望楼型の二層天守、総石垣の城として描かれている。
搦め手の長坂口の描写に至っては、断崖絶壁の上に石垣を張り巡らせてしまっている。
ここで有名な場面の登場。
慶次がいちもつを出してボロン、ごしごし、ドバ~の小便鉄砲(原文ママ)。
これがやりたいが為に、断崖絶壁に石垣を配したとしか考えられないが、原先生一流の名場面だけにオールOK!
小便をぶっかけた方向は、前田利家の援軍がやってくる大事な方角なのだが……やっぱり面白いからオールOK!
傾奇者という存在を広く世に知らしめてくれただけで、もう、このような名作は後にも先にもないのである。
なお、小牧・長久手の戦いが全国規模での争いだったことは以下の記事に記されている。
家康と秀吉による大大名の喧嘩とはいかなるものか?
よろしければ併せてご確認いただきたい。
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文:お城野郎!
絵:富永商太
【参考】
連載「お城野郎!」(→link)