防衛戦略で最も重要な課題となるのが「海」でしょう。
荒れがちな東シナ海・日本海を渡ってくるのは容易ではなく、しかも海岸線が複雑に入り組んでいるため、あたかも天然の要塞(逆に見ればガラパゴス)に守られていたわけですが、江戸末期を迎えるにつれ、その防衛策は崩れつつありました。
理由は「地図」です。
文政4年(1821年)に伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』が完成。
それからわずか7年後の文政11年(1828年)に、その地図を国外へ持ち出そうとした【シーボルト事件】が起きているのです。
一体どんな流れだったのか……マンガ『日本史ブギウギ』第204話スタート!
鳴滝塾
江戸参府
地図交換
◆「大奥でウケてさ」と仰られる徳川家斉さんですが、そんなレベルじゃないことは皆さんご存知でしょうか?
↓
子供を55人も作った11代将軍・徳川家斉 一体どんな治世だったんだ?
続きを見る
※続きは【次のページへ】をclick!