戦ばかりが続き、領民や家臣たちに負担をかけ続けた武田信虎。
駿河に追放され、甲斐に平穏が訪れる一方で、不幸のドン底に落とされることになった者もいる。
武田信玄の妹・禰々だ。
天文9年(1540年)11月30日、諏訪頼重に嫁ぎ、2年後の4月4日に息子の虎王を出産。
その直後、6月のことだった。
武田軍が電撃的に攻め込んだのである。
そしてわずか1ヶ月後には滅亡という、信玄の手腕が末恐ろしい……戦国ブギウギ武田三代記vol.15スタート!
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海野平の戦いからの~父・信虎の追放劇!【マンガ武田三代記14】
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最初の仕事
◆諏訪頼重と武田家は、信虎時代に同盟を締結。
武田から禰々が諏訪へ嫁ぐと、その翌年5月、武田軍と諏訪軍が共に小県郡へ攻め込み、【海野平の戦い】に勝って同エリアを制しました。しかし……。
7月になると上杉憲政軍が小県郡を取り返しにやってきたのです。
このとき迎撃に出向いたのが諏訪頼重軍でした。
意識の相違
◆武田晴信は如何にして諏訪頼重を滅ぼしたのか?
時系列で見てみると、信玄の恐ろしさが浮かび上がってきます。
天文11年(1542年)4月4日に頼重と禰々の息子・虎王が誕生
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同年6月21日:虎王が諏訪大社を参詣
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同年6月24日:武田軍が諏訪頼継らと共に攻め込んでくる――そんな噂が諏訪頼重の元に届く
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同年6月28日:武田軍が動くことを確認し、頼重も兵を集めるも、騎馬武者350・兵700~800にとどまる
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同年7月1日:武田軍は騎馬武者2,000・兵20,000という物見の報告が頼重に届けられる
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数日間攻防
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同年7月4日:頼重は開城し、翌日、甲府へ送られる
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同年7月19日:東光寺で頼重が幽閉
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同年7月21日:切腹
なお、この東光寺は、後に武田信玄の嫡男・武田義信が自害へ追い込まれることでも知られます。
今も両者の墓所が境内にあります。
赤児
◆甲斐の武田にとって、諏訪は信濃の玄関口。
領地を拡大するならば、絶対に避けて通れない要衝でした。
諏訪頼重を死にやり、その所領の東側半分を武田家が獲得し、西側半分は諏訪頼継に渡されます。
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