鬼滅の刃遊郭編

『鬼滅の刃 遊郭編』公式サイトより

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遊郭がセーフティネットだと?鬼滅の刃遊郭編で学ぶべきはむしろ大人だ

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【問題④】自分たちも苦しいと言いたい気持ち

被害者の声を過小評価する声の裏には、悲痛な叫びも時にはあります。

例えばトランプを熱狂的に支持し、BLM運動を声高に訴える人がいるとしましょう。

その意見の裏には、こういう叫びもあることも。

「なんで黒人ばっかり可哀想だって言うんだ! 私みたいな貧しい白人はどうでもいいのか! すべての命が大事だ、この自分のものも含めて!」

要するに、つらい自分の声も聞けということですね。

その人はそんなことをしてうれしいのでしょうか、それとも悲しいのでしょうか?

◆「黒人のいのちは大事だ」(BLACK LIVES MATTER)対「みんないのちが大事だ」(ALL LIVES MATTER)の言い合いをきっかけに、おもったこと(→link

 

【問題⑤】シンパシーとエンパシー

遊郭編で女性の苦難だけを扱っているとみなすこと――実はその考えもおかしい。

『鬼滅の刃』では男性の苦難も扱っています。

炭治郎と不死川実弥にかかる長男の重圧。

実弥は近代都市部貧困家庭の苦労も加わります。

遊郭編で活躍する宇随天元は、忍者として虐待に等しい生い立ちをしています。

嫁が三人いることだって「モテる」というよりも子孫繁栄をふまえ、一族から強制された可能性はあります。恋愛結婚かどうかは不明です。

善逸も借金のカタに鬼殺隊入りを果たしている。

何よりも鬼となった妓夫太郎です。

彼は醜い容貌だとされています。母が梅毒であったことを踏まえますと、胎児のころから何らかの悪影響があったかもしれません。

『鬼滅の刃』は、鬼を倒す側も、鬼も、悲しくて辛い宿命があったことが肝。

女の苦労だけを扱っていて不公平だなんて心配は無用なのです。

不死川実弥(鬼滅の刃・風柱)
不死川実弥と玄弥の兄弟が示す“男毒”からの解放~鬼滅の刃・風柱

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そう踏まえつつ、ここで【シンパシー】と【エンパシー】の問題でも考えてみましょう。

どちらも同情や共感のことではありますが、立脚点に違いがある。

【シンパシー】は、自分と同じ立場にあるものに対して共感なり、同情すること。

「わかるよ、私もそうだった」

女性が「遊郭編」で苦しむ女性に感情移入する心理です。

では【エンパシー】とは?

自分の経験範囲外のことにまで同情や共感を発揮することであり、知識と想像力が求められます。

「遊郭のことを調べた。すごくひどいと思った! なんてかわいそうなんだ、勉強になった」

そこまで到達できるかどうか。そこが問題ではないでしょうか。

「遊郭だなんて、子どもにどう説明すればいいの?」

そう悩む大人には僭越ながら提案があります。

子どもの【エンパシー】を信じて伸ばし、手助けをしてあげてはいかがでしょうか?

子どもが遊郭について理解できなくても、それは仕方ありません。ご自身が子ども時代に何かを鑑賞した時のことを思い出してみましょう。

私の場合は『三銃士』を愛読した結果、「イギリス人は悪党ばかりだな」と信じ込みました。

ただ、成長するにつれてそんな偏見は当然のことながらなくなっていきます。

フランスとイギリスに対立構造があった。

『三銃士』という作品がフランス人読者を想定していた。

そうした文学のお約束を学んでいくことがまずひとつあり、一方で英国の歴史や文化を学び、イギリス人から見ればフランス人こそ悪いとなることもある――それを知っていれば、無茶苦茶な偏見は矯正されていきます。

ただしこれは、私の実家に歴史系の本が多く、かつ図書館で調べる趣味があったからだとは思います。

そういう環境を見直してみて、子供たち本人の努力だけではカバーできない範囲を確認してみてはいかがでしょうか。

大人は「どう説明するか」というよりも、「この子にどう学んでもらえるか」を考えるべきだと感じるのです。

ここで天元のセリフを借りましょう。

「いいや、若手は育ってるぜ確実に。お前の大嫌いな若手がな」

説明して言い聞かせるのではなく、ご自身も学びながら、子供にもどう学んでもらえるか、向き合ってみるのが建設的だと思うのです。

 

遊郭への目線には、世代ごとの価値観も反映されている

遊郭――この舞台が発表された時点で、SNSは賛否両論が入り乱れていました。

ファンタジーか何か、ちょっと派手な舞台にするつもりではないのか?

そんな危惧が示されたものです。

なぜ「遊郭」を扱うだけで警戒してしまうのか?

今までの社会状況を考えると、それもやむを得ないと思いました。

なぜなら1990年代以降、歴史の暗部はフィクションから描かれない傾向が強まっていたからです。

例えばそれ以前、1987年には『吉原炎上』という遊郭の苦難を描いた映画がヒットを記録しています。

エロチックな場面も喧伝されたものの、決してストーリーは明るくなく、むしろ陰惨な場面も多いものでした。

同時期に公開された映画としては1988年『肉体の門』もあります。

同作は第二次世界大戦後の混乱の中、性産業において搾取される女性の苦悩を描いたものにあたります。

なぜこの2本の映画に注目したか。

1980年代後半の当時は、まだ第二次世界大戦を経験した“戦中派”が多く、社会の中核を担っていました。

終戦時に青少年であった層が、50代から60代を占めていたのです。

彼らは、映画のように性的搾取される女性の姿を目の当たりにしています。その苦労や悲しみをリアリティをもって感じることができた。

そして、このころから日本はバブル景気と呼ばれる空前の好景気時代(1985年から1991年)を迎えます。

戦中派に対し、明るい世相に浮かれた若年層にとって、こうした暗い物語は「ナウなヤングに理解できないチョーダサい親世代のもの」として捉えられてしまいます。

「ビンボーで身売り? そんなわけないじゃん、こんな好景気なのに~♪」

こうなってしまった。

性的搾取なんて存在しない。ブランドバッグ欲しさに身を売るのが女でしょ。次第にそんな偏見が根付いてゆきます。

バブル崩壊後の1990年代半ば以降は、ポケットベルや携帯電話の流行とともに「援助交際」という言葉が喧伝されるようになり、1996年には流行語にもなりました。

性的搾取でありながら、“援助”するために“交際”していると婉曲的に言い換えたのです。

まだ長い不景気、“失われた30年”になるとはわからない日本社会は、性的搾取への認識を変えません。

楽をしたい、遊ぶ金欲しさに女はそういうことをするものだ。ミニスカートにルーズソックスを履いた女子高生たちは、そういう存在であるとみなされていたのです。

そんな平成にヒットした遊女の漫画原作映画に2007年『さくらん』があります。

『さくらん』(→amazon

「遊郭は悲惨である」という基本設定を一応押さえているとはいえ、ポップで華やかな世界観がそこにはありました。

女は搾取されるだけじゃない、成り上がってモデルやアイドルのようにだってなれる。そういうメッセージ性はどうしたって感じられたものです。

それが当時の価値観であり、全否定できなくはありません。

「ああ、遊郭っていうのは今でいうところのアイドルグループみたいなものだね」

「まあ、江戸時代のキャバクラだよ」

そんなことを言う誰かに対し、善逸顔になって色々ぶちまけたくなる気持ちはわかります。

しかしそこは冷静になって考えてみたいのです。

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