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月照/wikipediaより引用

西郷どん(せごどん)特集 幕末・維新

月照はなぜ西郷と共に入水自殺せねばならなかった?京都・清水寺住職の運命

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薩長同盟戊辰戦争、あるいは西南戦争など。
歴史の授業だけで西郷隆盛を習うと、いかにも「偉人感」が先に立ってツマラナイという方がおられます。

ナルホド。
なんとなく言いたいことはわかります。

西郷の魅力は、そんな、教科書に収まるようなところではない。
確かにその通りかもしれません。

では、授業では習わない、人間臭い西郷と言えば、どんな場面を思い浮かべるか?

その強烈な個性の中でも、一際、目立つのにあまり知られてないのが“入水自殺”かもしれません。

西郷は1858年、薩摩の錦江湾に身を投げ、そして奇跡的に回復し、後の活躍へと繋げます。
しかしこのとき、共に飛び込み、亡くなった方がおられます。

僧・月照――。

清水寺の住職にして、大老・井伊直弼に目をつけられた僧侶。
林真理子氏の原作『西郷どん』では、西郷隆盛と男色の関係も持つ、異色のキャラクターでもありました。

つまりドラマでは鈴木亮平さんと、尾上菊之助が、もしかしたらああなってこうなってしまう可能性もある……。
と、ここでは物語の月照ではなく、史実における彼の足跡を辿ってみたいと思います。

 

讃岐で生まれ、京都で出家

時は文化10年(1813年)。
月照(本稿はこの名で統一)は、大坂の町医者・玉井宗江の長男として誕生しました。

生まれた場所は、父の出身地である讃岐・吉原(現在の善通寺市)。
1827年(文政10年)には、叔父の清水寺成就院住職・蔵海の下で得度し、出家。それから約8年後の1835年(天保6年)には、自身が成就院の住職となっています。

現在、清水寺には、西郷と月照に関する碑が残されています。

重要文化財に指定されている清水寺の北総門

北総門をくぐると月照と、弟・信海の慰霊碑があり、その右側に西郷隆盛が送った弔詞碑(「相約して淵に投ず……」と記された漢詩)があります

もしも月照が、生まれ育った讃岐で出家していたら?
彼はおそらくや一人の僧侶として、人生を全うしたことでしょう。

しかし、彼は激動の時代へと向かう、京都に脚を踏み入れたのでした。

 

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儒学者や水戸藩士、薩摩藩士らと交流を持ち

清水寺には、青蓮院宮久邇宮朝彦親王、近衛忠煕らが堂上に出入りするようになりました。

近衛忠煕と言えば、島津家とは切っても切れない関係です。

彼自身の正妻が島津斉興の養女・島津興子(郁姫・実父は島津斉宣)ですし、天璋院篤姫於一)が将軍家に輿入れする前は、いったん島津家を出て、この近衛忠煕の養女となってから、徳川家定に嫁いでいます。

その忠煕から月照は和歌を学んでいました。

そして嘉永6年(1853年)、黒船が来航。
激動の世を迎え、彼ら公家衆も歌を詠んでいるだけでは済まなくなったのでしょう。

もはや東の将軍家に権力を持たせるだけではいけない。
迫り来る夷狄(海外列強)から、日本を守り、天皇陛下の意向を示さねばならない!
そんな思想が、京都を覆うようになります。

黒船来航の翌年にあたる、安政1年(1854年)。

月照は、国事に専念するため、住職の座を弟・信海に譲りました。
勤王の僧として、生きることにしたのです。

孝明天皇のために攘夷祈願を行い、国家安寧を願う月照。
彼は僧侶として、祈祷の力で国家を守ろうとしました。

そしてそのうち、西郷隆盛をはじめ、梅田雲浜(儒学者)、頼三樹三郎(らい みきさぶろう・儒学者)、鵜飼吉左衛門・幸吉父子(水戸藩士)らと親しく交わるようになりました。
薩摩藩士とは、特に懇意にしていました。

 

安政の大獄」に巻き込まれる

安政5年(1858年)8月、月照の奔走の甲斐あって、朝廷から「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が水戸藩に下されました。

内容は以下の通りです。

・朝廷の許可なくして、日米修好通商条約(安政五カ国条約)とは何事か。説明を求める
・公武合体を行い、幕府は攘夷を推進せよ

公武合体とは朝廷と幕府、諸藩が協力して有事にあたろう――というもので、密勅とは、孝明天皇から水戸藩へ直接くだされたものです。
つまり幕府は素通りされて面目丸つぶれ。
月照は強い影響力を発揮すると同時に、幕府から睨まれるリスクを背負うことになりました。

一方、このころ西郷は、精神的な窮地に立たされておりました。
崇敬する主君・島津斉彬が急死してしまったのです。

水戸藩への密勅がくだされる約一ヶ月前のこと(1858年7月)。藩兵を率いて上洛を考えていた、その矢先のことでした。
あまりのことに西郷は、斉彬に殉じて死のうと考えます。

これをなだめ、そして止めたのが月照でした。
真偽の程は不明ながら、2人の男色を描いた林真理子氏も、こうした強い関係性から着想したのかもしれませんね。

ともかく、将軍継嗣問題で一橋派であった月照も、西郷らも、にわかに窮地に陥るようになります。

井伊の赤鬼こと井伊直弼による「安政の大獄」が始まり、両者共に処罰対象とされたのです。

すでに、月照と懇意にしていた梅田雲浜、頼三樹三郎、鵜飼吉左衛門・幸吉父子らは、逮捕されておりました。西郷も、危険人物としてマークされていました。

もう京都にはいられない。

そう考えた西郷は月照を連れ、平野国臣の助力を得ながら、故郷の薩摩まで逃げ帰ります。

 

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「日向国送り」すなわち始末せよ

島津斉彬が亡くなり、次に同家を継いだのは弟の島津久光ではなく、その息子の島津忠義。
されど実権は久光が握る。そんな状態でした。

厄介者の月照を連れて薩摩に戻った西郷に対し、藩の裁きは極めて冷酷なものでした。

「日向国送りにせよ」

日向国とは、現在の宮崎県にあたり、薩摩の北東に位置しております。
もっとも位置がドコにあろうと関係ありません。
薩摩と日向の国境まで進み、そこで「斬り捨てよ」という死刑宣告なのです。

西郷、月照、平野は、薩摩の錦江湾(鹿児島湾)に船を浮かべました。

船上で酒を酌み交わす三人。
もはや彼らに打つ手はありません。

西郷は苦悩しました。
志を同じくした月照を救うどころか殺すだなんてできるワケがない。

しかし、もはや逃げ場はない。
ならば、せめて一人では死なせはしない――そう判断するや、月照と錦江湾に身を投げたのです。

二人は、覚悟の上で入水したとされています。
船の舳先で用を足している月照に西郷がいきなり抱きついて、そのまま強引に水の中に落ちたという説もあります。
この説に従うと、無理心中ということですが……。

このとき二人は、平野らによって引き揚げられました。
西郷は水を吐き出し、蘇生しましたが、月照は既に事切れていました。
享年46。

 

西郷は死して偽名で奄美大島へ

西郷はこの事件により、奄美大島への流罪がくだされます。
月照だけでなく、西郷も生きていては何かと都合が悪いため、いったんは死んだことにされ、島へは菊池源吾という偽名で送られます。

そして西郷は生涯、月照の死を悔やみ続けたと伝わります。
奄美大島に着いたばかりの頃、ひたすら木刀を振り、地元の人から気味悪がられていた――と伝わりますが、その直前にこんな出来事があったのならば仕方ないのかもしれません。

西郷は、1874年の17回忌に「相約して淵に投ず……」という漢詩を送り、それは今も清水寺北総門内に石碑として残っております。

一方、月照はこんな辞世を詠んだとされます。

大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

もしも無理心中だったとすれば、そんな余裕はなかったことでしょう。

教科書にはまず記されることのない西郷の挫折と心の傷。
この一件を知って西郷の魅力に取り憑かれていく人もまた少なくありません。

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文:小檜山青




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【参考文献】
明治維新人物辞典 幕末篇』奈良本辰也編
国史大辞典

 



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