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藤田東湖/wikipediaより引用




西郷どん特集 幕末・維新

藤田東湖の思想が水戸藩を過激に走らせた!? 西郷隆盛の薩摩藩との違いは何だったのか

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江戸時代末期――。
黒船来航より前に外国勢力の力をひしひしと感じる人々がいたのですが、それが一体どんな人物だったか、みなさんはご想像つきますでしょうか?

伝統的に蘭学を好む藩に生まれ、その先進性に心引かれる人々か。
あるいはナポレオンや阿片戦争といった情報を集め、危機感を抱く知識人か。

中でもリアルに圧迫感を覚えたのが、地理的に黒船を目撃する機会があったり、対応を迫られたりする――そんな藩の人々でした。

真っ先にアタマに浮かぶのは薩摩藩でしょう。
島津斉彬……ではなく、その前の時代から、島津斉興とその右腕・調所広郷は、鹿児島湾や琉球にたびたび押し寄せる黒船を目にしてきました。

「黒船に勝つこたあできもはん」
彼らは、外国を追い払う【攘夷】は、早くから無理だと悟っておりました。

小手先のやり方では到底勝てない、そのために集成館事業などの藩政改革で国力増強に努めます。
この路線は、息子の斉彬と久光の代にも引き継がれました。

一方、そのころ関東は水戸藩でも、黒船の脅威をひしひしと感じる機会が多くありました。
彼らの領国は、太平洋に接する海岸線が長く、しばしば黒船が目撃されていたのです。

ところが、です。
同じ圧力を感じていても、考え方は異なるもので。
水戸藩の場合、薩摩とは全く違う道を模索します。

すなわち攘夷論。徹底的に外国を追い払おう!という考えでした。

藩主・徳川斉昭は決してアタマの堅い人物ではなく、攘夷論と同時に西洋流の藩政改革も進めます。
かくして水戸藩は幕末の動乱において、先駆けの役割を果たすのですが、同時に激しい内部抗争によって多くの血も流れます。

だからなのでしょうか。
明治維新を成し遂げた「薩長土肥」に「水」の字が入ることはありませんでした。

そんな水戸藩にあって、思想をリードしたのが藤田東湖です。
幕末の趨勢に多大なる影響を与えながら、志半ばで散った藤田。

西郷どん主役の西郷隆盛が、斉彬に従い江戸に出た際、若き天才・橋本左内と共に影響を受けた人物がこの藤田です。
彼の生涯は、尋常ならざるコダワリにありました。

 

水戸学の家に生まれて

尊皇攘夷――。
幕末に頻出するこの言葉の意味は「外国人および外国かぶれの者を排斥する(時には殺害もありうる)」と、同時に「尊皇」(天皇を尊ぶ)思想のことです。
現代人から見れば過激に映るかもしれませんが、外国に侵略されかねない危機感の時代には、一つの有効的な考え方であったでしょう。

藤田東湖(本稿はこれで統一)は文化3年(1806年)、水戸学中興の祖とされる藤田幽谷の子として誕生しました。
そもそも幽谷も商家の子として生まれ、幼い頃から神童として有名。長じて後は水戸藩を代表する学者となっております。

その子・東湖は、兄が夭折していたため、幽谷にとっては実質的な長男でした。

文政7年(1824年)。
水戸藩内の大津浜にイギリスの捕鯨船12名が上陸しました(大津浜事件)。

船員たちは航海の間に真水と野菜が不足してしまい、壊血病を発生。そのため、やむなく上陸したのでした。

【関連記事】捕鯨船エセックス号の生き地獄は小説『白鯨』よりキツい!? 本当にあったクジラと漂流の恐怖

これを知った幽谷は、当時19才の我が子にこう命じます。

「異人を斬ってこい。そして裁きを待て」

藤田が意を決して浜に向かうと、既にイギリス人はおりません。
彼らは物資を補給し、水戸藩から解放されて立ち去っていました。

同年、薩摩藩領宝島において、イギリス人が牛を強奪しようとして射殺された「宝島事件」が発生しました。
この二件の事件が、「異国船打払令」のきっかけとなります。

外国船に対する処分に「生ぬるい」と激昂したのが幽谷の門下生たち。
門下の会沢正志斎は、尊王攘夷の思想をまとめ、水戸学の教典となった『新論』を発表します。

「断固として攘夷を行うべし!」
彼らはそう主張するとともに、藩政改革を行うよう求めたのでした。

会沢正志斎/wikipediaより引用

 

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斉昭の右腕として藩政改革

文政10年(1827年)、藤田は家督を相続し、進物番200石を得ました。

そしてその2年後の文政12年(1829年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、同門の会沢正志斎とともに斉昭を支持。
斉昭派として様々な策を用いて、藩主にすることに成功します。

以来、斉昭は藤田を右腕として重用し、水戸では理想の藩を目指して藩政改革が始まります。

徳川斉昭/wikipediaより引用

藤田の思想に染まりきった斉昭は、急進的な手腕を発揮。
以下のような改革を次々に打ち出していきました。

・貧民救済
・質素倹約の実行
・藩校「弘道館」開校
・学問振興
・廃寺

上から見ていくと『悪くないんでは……?』と思われるかもしれませんが、ラストの「廃寺」というのが曲者です。

寺を破壊し、仏僧を路頭に迷わせてしまうという過激なものです。
明治の黒歴史ともいえる【廃仏毀釈】の元となるような政策でした。

この政策に、結城朝道らの保守派が反発。
後に水戸藩を真っ二つに割った惨劇への道筋が、つけられてしまったとも言えました。

 

攘夷ゴリゴリ、斉昭、敵を作りすぎ

斉昭の過激な攘夷思想や、日頃の言動は、藩内外に多くの敵を作りました。
また、江戸の大奥からは、セクハラ&パワハラ気質がひどく嫌われていました。

さすがにこれには、優秀かつ調整力の高さで知られる老中・阿部正弘も手を焼く始末。
ついに斉昭は弘化元年(1844年)、譴責(けんせき・懲戒処分のこと)の上、隠居を命じられてしまいます。

ここでおとなしくしていれば、よかったのですが……。

嘉永6年(1853年)、神奈川県の浦賀に黒船がやってきました。

こうなると、水戸藩の重鎮である斉昭を無視して政治をやるわけにもいきません。
斉昭は海防参与に任じられ、藤田も海岸防禦御用掛に任じられます。

ウキウキしながら久々に江戸城にやってきた斉昭は、ノリノリでこう提案します。

「交渉すると見せかけて、白刃一閃してまず敵の将を斬る。そして黒船に奇襲を仕掛けて乗っ取ってしまえばいい。そうすれば黒船四隻も手には入って一石二鳥! 名案ではないか!」

ドヤ顔でこんなことを言われた阿部正弘の心中を想像するに、辛いとしかいいようがなく……。

さすがに辟易したとは思いますが、そこは温厚な阿部です。
やんわりと断ります。

阿部正弘/wikipediaより引用

「いえ、もう大統領からの親書は受け取るって決めましたので。今朝には使者も派遣して、その旨は伝えておりまして。白刃一閃、またまだご冗談を……」

阿部は黒船来航をきっかけにして、広く人材を募集し、その中には、あの勝海舟もおりました。

しかし、これからいよいよ時代が動こうという安政2年(1855年)。
大地震で倒壊した建物から母を救おうとして、藤田東湖は圧死してしまうのでした。
享年50。

 

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天狗党を率いた藤田の息子はじめ400名もの大惨殺

藤田は、水戸学の重鎮として幕末に活躍した錚々たる面々に影響を与えています。
西郷隆盛も、藤田を尊敬しており、他にも次のようなメンツが挙げられます。

・吉田松陰
木戸孝允
・佐久間象山
・横井小楠
・吉田東洋
・橋本左内
・梁川星巌
・山内容堂
・松平春嶽

いずれも名だたる人物ばかり。
朝廷とのつながりもある水戸藩が、黒船来航以来の幕末動乱初期において、一歩リードできたのもうなずけますね。

しかし、薩摩藩と違い、彼らは肝心なところで足並みが乱れます。
斉昭・藤田の時代で既に藩内が割れていましたが、それが最悪の形で噴き出したのです。

急進的な尊王攘夷派である水戸天狗党は、保守派への巻き返しをはかるため、元治元年(1864年)に挙兵。
天狗党を率いていたのは、藤田の四男である小四郎でした。

天狗党は諸生党相手に敗れ、小次郎は元治2年(1865年)斬首されました。享年24。
しかしこのとき、天狗党を処刑した諸生党は、本人のみならずその家族まで処刑し尽くすのですから厄介です。

処刑された中には、なぜ殺されるのか理解できない幼児も含まれていました。

その数、実に400名にも及ぶほどです。
「安政の大獄」による処刑者が8名であったことを考えると、おそろしい数字です。

その後、一転して天狗党が巻き返すと、今度は諸生党を徹底して殺戮する……そんな復讐のスパイラルに向かっていくのです。

もはや高邁な思想も、世直しという意識もありません。

かくして時代が明治維新へ向かおうとする中、水戸藩の人材は枯渇しきっておりました。
維新への道のりでは先陣を切っていたにも関わらず、「薩長土肥」の中に入れなかったのです。

どころか、明治2年(1869年)に新政府が停戦を命じるまで、水戸藩は藩内で争い、血を流し続けおりました。

もしも藤田が生きていればここまでこじれなかったのかもしれません……。

水戸城・大日本史編纂之地

 

冷静に考えたい、尊皇攘夷思想とは?

確かに水戸学や藤田東湖の思想は、多くの人々に影響を与えました。
しかし、それは、決して良い影響だけではなかったでしょう。

幕府の政治を真っ二つに割り、「安政の大獄」と「桜田門外の変」を招いた将軍継嗣問題は、一橋派の重鎮であった斉昭があそこまで周囲から反発されていなければ、起こらなかったかもしれません。
その後に藩を真っ二つに割った流血事件についても、冷静に考えてみる必要があるでしょう。

思い出してもみてください。
大津浜にイギリス人が上陸した時、藤田幽谷一門は、まずイギリス人を斬殺しようとしていました。
彼らの思想の根には、反対する者を斬り捨てるという選択肢があったわけです。

いくら理想を掲げてみても、背景にある暴力志向は拭えません。
実際、攘夷を掲げたテロリズムは京都で多発しました。その思想が持つ暗黒面は、決して無視できないはずです。

そう、たとえ西郷隆盛ら維新の英傑が信奉していた思想だとしても、黒い部分があったのです。

ここで再度、本稿冒頭の問いを考えてみたいと思います。

水戸藩と薩摩藩、一体どこで差がついたのか?

宝島事件と大津浜事件からスタートして、明治維新をゴールとしたその道のりにおいて、水戸だけでなく薩摩でも同じく内部争いはありながら、最終的に薩摩は藩士の多くが結束し、薩長土肥という新政府に落ち着きました(その結束が良からぬ方向へ進み、西南戦争が引き起こされるわけですが……)。

歴史に学ぶ教訓とは、こうした違いを考察するところにも潜んでいるのですよね。

文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
泉秀樹『幕末維新人物事典
半藤一利『幕末史




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