藤田東湖

幕末・維新

藤田東湖の生涯|斉昭の思想に影響を与え水戸藩を過激化させた危険人物か

安政2年(1855年)10月2日は藤田東湖の命日です。

水戸藩の重要人物だけに大河ドラマにも登場しており、直近の作品ですと『青天を衝け』で渡辺いっけいさんが演じられていましたね。

同作品で徳川斉昭となっていたのが竹中直人さん。

斉昭は

「攘夷!」

「夷狄はぶっ殺せ!」

という過激な言動を繰り返しては、江戸幕府を困らせていましたが、そもそも史実で徳川斉昭の思想に強く影響を与えていたのが、この藤田東湖です。

劇中では、なんとも人の好さそうな人物だったあの人が、そんな過激なことを?

いったい史実でどんな事績があったのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

藤田東湖の肖像画

藤田東湖/wikipediaより引用

 


水戸藩という特殊な立ち位置

江戸時代末期――。

黒船来航より前に外国勢力の力をひしひしと感じる人々がいました。

地理的に黒船を目撃しやすいところ……と言えば、真っ先にアタマに浮かぶのは薩摩藩でしょう。

島津斉興とその右腕・調所広郷は、鹿児島湾や琉球にたびたび押し寄せる黒船を目にしており、

「黒船に勝つこたあできもはん」

と、彼らは早い段階から、外国を追い払う【攘夷】が荒唐無稽だと悟っておりました。

島津斉興(左)と調所広郷の肖像画

島津斉興(左)と調所広郷/wikipediaより引用

そのころ関東でも黒船の脅威をひしひしと感じる藩がありました。

水戸藩です。

彼らの領国は、太平洋に接する海岸線が長く、しばしば黒船が目撃されていたのです。

ところが、水戸藩の場合、薩摩とは全く違う道を模索します。

すなわち攘夷論。

徹底的に外国を追い払おう!という考えであり、そんな水戸藩で思想をリードしたのが前述の通り藤田東湖です。

彼の生涯は、尋常ならざるコダワリにありました。

 


水戸学の家に生まれて

尊皇攘夷――。

幕末に頻出するこの言葉の意味は「外国人および外国かぶれの者を排斥する(時には殺害もありうる)」と、同時に「尊皇」(天皇を尊ぶ)思想のことです。

現代人から見れば過激に映るかもしれませんが、外国に侵略されかねない危機感の時代には、周囲からの支持を得やすい有効手段の一つだったでしょう。

藤田東湖(本稿はこれで統一)は文化3年(1806年)、水戸学中興の祖とされる藤田幽谷の子として誕生しました。

そもそも幽谷も商家の子として生まれ、幼い頃から神童として有名。

長じて後は水戸藩を代表する学者となっております。

その子・東湖は、兄が夭折していたため、幽谷にとっては実質的な長男でした。

文政7年(1824年)5月、水戸藩内の大津浜にイギリスの捕鯨船12名が上陸しました(大津浜事件)。

船員たちは航海の間に真水と野菜が不足してしまい、壊血病を発病したため、やむなく上陸します。

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これを知った幽谷は、当時19才の我が子にこう命じます。

「異人を斬ってこい。そして裁きを待て」

藤田が意を決して浜に向かうと、既にイギリス人はおりません。

彼らは物資を補給し、水戸藩から解放されて立ち去っていました。

同年、薩摩藩領宝島において、イギリス人が牛を強奪しようとして射殺された「宝島事件」が発生しました。

この二件の事件が「異国船打払令」のきっかけとなります。

外国船に対する処分に「生ぬるい」と激昂したのが幽谷の門下生たち。

門下の会沢正志斎は、尊王攘夷の思想をまとめ、水戸学の教典となった『新論』を発表します。

会沢正志斎/wikipediaより引用

「断固として攘夷を行うべし!」

彼らはそう主張するとともに、藩政改革を行うよう求めたのでした。

 


斉昭の右腕として藩政改革

文政10年(1827年)。

藤田は家督を相続し、進物番200石を得ました。

そしてその2年後の文政12年(1829年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、同門の会沢正志斎とともに徳川斉昭を支持。

斉昭派として様々な策を用いて、藩主にすることに成功します。

以来、斉昭は藤田を右腕として重用し、水戸では理想の藩を目指して藩政改革が始まります。

徳川斉昭の肖像画

徳川斉昭/wikipediaより引用

藤田の思想に染まりきった斉昭は、急進的な手腕を発揮。

以下のような改革を次々に打ち出していきました。

・貧民救済

・質素倹約の実行

・藩校「弘道館」開校

・学問振興

・廃寺

上から見ていくと『悪くないんでは……?』と思われるかもしれませんが、ラストの「廃寺」というのが曲者です。

寺を破壊し、仏僧を路頭に迷わせてしまうという過激なものです。

明治の黒歴史ともいえる【廃仏毀釈】の元となるような政策でした。

この政策に、結城朝道らの保守派が反発。

後に水戸藩を真っ二つに割った惨劇への道筋が、つけられてしまったとも言えました。

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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