前列中央が永倉新八/wikipediaより引用

ゴールデンカムイ特集 幕末・維新 新選組

永倉新八77年の生涯をスッキリ解説!新選組・最強剣士はいかに時代を駆け抜けたか

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「壬生狼だッ!」
「逃げろ!」

そんな台詞を聞けば、幕末時代劇好きの方ならすぐにピンと来られるでしょう。
新選組の登場シーンであり、恐ろしい剣技を持つ彼らは狼のように恐れられていました。

比較的平和な時代を経てスポーツと化していた当時の武士剣術。
これに対し、荒々しくパワー溢れる殺人剣を継承していたのが、西では薩摩の示現流や薬丸自顕流であり、東の頂点が新選組の天然理心流でした。

【関連記事】
薩摩について→示現流&薬丸自顕流
天然理心流について→土方歳三

相手を殺傷することを厭わない剣術をマスターしていた新選組。
その中でもトップ3となれば、実質的に幕末の最強剣士候補に入るでしょう。

ではその3名とは?

◆夭折の天才 沖田総司
◆謎めいた剣士 斉藤一
◆がむしゃらな江戸っ子 永倉新八

今回は、狼の中でも僅差で一位ではないか?とされた永倉新八にスポットを当てたいと思います。

 

松前藩士なれど生粋の江戸っ子でぇ!

永倉新八のことを愛した作家に、粋な江戸情緒を大切にした池波正太郎がいます。

池波は、永倉を気に入った理由として、
「三味線堀の水で産湯を使った、生粋の江戸っ子でえ!」
としておりました。

永倉は松前藩士の子とはいえ、生まれも育ちも江戸。
気質も江戸っ子らしさに溢れていたのです。

そんな永倉が誕生したのは、天保10年(1839年)のこと。
近藤勇の5才下であり、土方歳三の4才下にあたります。

父は松前藩江戸定府取次役で150石の長倉勘次で、幼少期は栄治と呼ばれていました。

松前藩は蝦夷地に領地を持ち、アイヌとの交易で潤った、幕藩体制でも例外的な藩です。

松前城と大手門/函館市中央図書館蔵

ただし、江戸定府取次役の息子では、蝦夷地を踏むような経験はありません。
後に彼の盟友・土方歳三が松前藩と戦い、撃破することになりますが、それはまだまだ先のお話。

長倉夫婦は、やっと生まれた待望の男児を、蝶よ花よと甘やかして育てます。

読み書きを教えようとしてもすぐに飽きてしまい、親の目にも余るほど荒っぽいことばかりをしているやんちゃな息子。
そこで父は、我が子に竹刀を持たせることにしました。

武道ならば、武士の治めるべき道であります。
修行に励むことで、有り余るエネルギーを昇華させることができるのではないか。

こうして永倉は弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門しました。

現在でいうところの小学校低学年でした。

 

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剣術を極めたいから脱藩する!

エネルギーに満ちあふれた永倉は、あっという間に頭角を現しました。
師匠も目を細め、
「あれこそ我が弟子!」
と自慢するほどの上達ぶりです。

入門4年目に師・岡田利章が亡くなった以後は、岡田助右衛門に教わります。

そして15歳で切紙(免許状の一つで初段)。
入門十年目の安政3年(1856年)には、18歳で本目録(同じく免許状の一つ)を獲得しました。

堂々たる天才剣士っぷり。
この年、永倉は元服を果たしました。

武士の本分たる剣術で、天才的な腕の冴え渡りを見せる永倉に対し、両親もさぞかし鼻が高かったことでしょう。

ただ、それもある程度セーブができていればのお話でして。

長男として生まれた永倉は、二男三男とは違って剣術修行を終え、藩士の後継者としての教育に臨まねばなりません。
同輩の二男三男が剣術道場に向かう中、永倉には途中でSTOPがかかります。

しかし、うずき出した腕は、もはや止まらない。

「こうなったら、脱藩するしかねえ!」

元服の翌年、19の春。
永倉は松前藩から脱藩し、剣術修行に出てしまいました。

本来でしたら重大な犯罪ですが、
「武芸の修行という理由は殊勝な心がけだから」
と藩は許してくれます。

両親は、さぞかしガッカリしたことでしょう。

 

俺より強い奴に、会いに行く

脱藩した永倉は、「長倉」から「永倉」と名を改め、江戸本所亀沢町の百合本昇三の道場「百合本塾」に出入りすることになりました。
ここで4年間、ひたすら修行に励みます。

ペリー来航以来、何かと騒がしい世情でしたが、永倉に政治的な関心は無く、スポーツマンとしてひたすら剣を振っておりました。

ペリー来航/wikipediaより引用

しかし22才にして、神道無念流の免許皆伝を得ると、沸々と欲求が湧いてきます。

いったい俺はドコまで強いのか!?

格闘ゲームか少年漫画のような展開ですが、ともかくそういうものなのでしょう。

「どうでえ、宇八郎さんよ。諸国を武者修行で回ってみねえか」
永倉は、同じく松前藩士の市川宇八郎(のちの芳賀宜道)に声を掛けてみました。

「おもしれえ。いっちょやってみようぜ」
市川も快諾し、二人は関東一円を暴れ回ります。

ドコへいっても軽々と相手を倒す永倉と市川の最強コンビに、相手は舌を巻きました。

江戸でも屈指の剣士になりつつあった永倉には、稽古をつけて欲しいという話が舞い込みます。
心形刀流剣術伊庭秀業(隻腕の美男剣士・伊庭八郎の父)の門人・坪内主馬にも見込まれ、道場師範代を務めることもありました。

そこで、門下生・島田魁(のちに新選組に加入)とも知り合っています。

 

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「試衛館」の兄ちゃんたち

やがて永倉は「試衛館」という、天然理心流という流派の道場を知りました。

常に50人、60人と出入りする道場の主は、近藤勇という男。

近藤勇/Wikipediaより引用

道場は、さながら梁山泊か、虎の穴か。
個性豊かで血気盛んな青年たちがウロウロしていました。

若くして天才的な剣をふるう、塾頭の沖田総司。
色白の美男ながら、太刀筋鋭い土方歳三。
腹に切腹の跡をつけた、豪快な原田左之助。
「魁先生」と呼ばれ、何事にも真っ直ぐな藤堂平助。
年長者で経験に恵まれた井上源三郎。
人柄が良く、温厚な山南敬助。

ここに元気のいい永倉が加わったわけです。
彼らは酒を飲みながら、酔いが回るとこんな物騒なことを言い合いました。

「近頃、何が腹立つって、鳶鼻の異人どもだ。見かけたら斬り捨ててやろうじゃあねえか!」

道場でクダを巻く青年たちのうち、
・本物の外国人を見たことが何人いるのか
・開国の意味がわかっているのか
わかったものではありません。

が、これが当時の雰囲気でした。

勝海舟福沢諭吉五代友厚のような例外的な人物を除けば、
「異人をぶった斬ってこそ愛国!」
そんなレベルであったのです。

後に倒幕を目指す者にせよ、幕府のために戦う者にせよ、大差はありませんでした。

 

将軍警護だ、上洛だ!

「試衛館」で青春の日々を送る青年たち。
そんな彼らの耳に、ビッグニュースが飛び込んで来ます。

「将軍様が上洛する! その護衛を募集しているらしい」

運命を変えるニュースが飛び込んで来たのは、文久3年(1863年)のことでした。
取締役は山岡鉄太郎(鉄舟)です。

【関連記事】山岡鉄舟

なんとなく異人をぶった斬る程度の気分はあって、知識は不足気味だけど、何かをしたい青年たち。
将軍警備という話があるのなら、そりゃもう飛びつくほかありません。

かくして京都に向かう道すがら、永倉も含めた近藤一派はトラブルに遭遇しました。

宿の手配を担当していた近藤勇が、本庄宿でうっかり水戸藩士・芹沢鴨一派の宿の手配を忘れたのでした。

彼らは、あてつけに野宿すると焚き火をし始め、大変な騒ぎに。

近藤はこういうことには向かない性格だったんでしょうね。
山南敬助がこのあと宿予約担当者に交替しました。

「芹沢鴨っていやな奴だな〜」
となりそうなところですが、実のところ永倉とは割と気が合う面もあったようです。

ただ、この程度は軽いジャブ程度のトラブルです。
浪士を率いていた清河八郎が、あろうことか京都に着いた途端こう宣言したのです。

「我々は将軍家茂の警護ではなく、尊皇攘夷の魁となる!」

清河八郎/wikipediaより引用

突然ワケのわからない宣言が出され、狐につままれたような気持ちになった浪士たち。
スゴスゴと江戸に引き揚げる者もいましたが、近藤一派と芹沢一派は残留を決めました。

 

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「新選組」結成、しかしオラついていた

彼らは京都の八木家に留まります。
さりとて幕府から得られる収入もなく、身分の保証もありません。

そこで頼ったのが、半年ほど前に「京都守護職」となった松平容保でした。

松平容保/wikipediaより引用

浪士たちは容保に認められ、彼らが滞在する八木家の門には、こう書かれた札が掲げられました。

【松平肥前守御預新選組】

新たに選ばれた組だから、新選組――誇らしげにそう名乗った彼らですが、実のところ京都の町民からは嫌われていたようです。

みすぼらしい服装で、無骨な関東訛り。
その時点でマイナスだけでなく、彼ら新選組は実にオラついていたのです。

特に芹沢一派はやりたい放題で、商人相手にゆすりたかりのようなことをしたり。
気に入らない芸妓の髪の毛を切り取ったり。
大阪で力士と乱闘になったり。

当時、京都にいた浪人は総じて荒っぽいものでしたが、よりにもよって警護担当でオラつくとマズイわけでして。
気のいい永倉は、芹沢一派と酒を飲むこともありましたが、この手の争乱に巻き込まれるとホトホト手を焼いてしまいました。

それでも気性のサッパリした永倉は、近藤一派ほど芹沢を嫌っていたわけでもありません。
神道無念流という同じ流派を学んだことも、親近感を覚えさせたのでしょう。

しかし文久3年(1863年)9月、しこたま酒を飲み、愛妾を抱いて寝込んでいた芹沢が暗殺されてしまいます。

永倉は事件を後になって知らされました。

しかも当初は
「長州藩士の犯行」
ということにされておりました。




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