鍋島榮子/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末お姫様8名 それぞれの意外な行く末~鹿鳴館の華、籠城戦の指揮……etc

更新日:

徳川吉子(水戸藩主・徳川斉昭正室)

勝ち組の姫君たちが、打掛からドレスに着替え、華やかな明治を生きる中。
負けた側の姫君は、命からがら戦火の中を生き延び、ドレスではなく粗末な衣服を身につけ、明治を生きることすらありえました。

島津の姫というよりも、徳川の妻として家の存続に生き抜いた天璋院・篤姫は有名です。

天璋院篤姫47年の生涯をスッキリ解説!薩摩に生まれ、最後は芯から徳川として

明 ...

続きを見る

彼女以外にも、苦難を生きた姫たちがいました。

徳川吉子(よしこ)、吉子女王とも呼ばれ、夫は幕末初期において台風の目となった徳川斉昭。
徳川慶喜の父でもあります。

「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し

寛 ...

続きを見る

あまりに性的に放埓であり、女性相手にともかく尊大。
無体な振る舞いに及ぶこともあり、そのせいで大奥からは嫌われておりました。
それが、「将軍継嗣問題」に影響を及ぼしたともされています。

篤姫は、慶喜を将軍にするため徳川家定に嫁いだようなものです。

しかし、家定の母・本寿院は、
「あんな斉昭の子・慶喜を将軍にするくらいなら、自害する!」
と言って聞かなかったため、挫折してしまったそうです。

本寿院はどんな女性? 西郷どんで泉ピン子さん演じた徳川家定の生母

大 ...

続きを見る

そんな斉昭ならば、正室・吉子にもさぞや嫌われていたのではないか?
と思いそうなところですが、実はそうでもありません。

有栖川宮家の姫君であった吉子は、多くの子に恵まれました。
しかも彼女は、書、刺繍、和歌、茶道、琴と篳篥演奏のまでこなす才知溢れる女性で、読書を好みました。

大奥で嫌われたことを考えますと、ちょっと信じがたいことがあります。
斉昭は妻を愛するあまり、側室すら置こうとしなかったのだとか。

それを吉子が、
「やめとくれやす。うちの嫉妬深さのせいで側室も許さないと思われたらいやどすえ」
と、夫に側室を勧めたというのですから、驚かされます。

吉子は、夜中に斉昭が用足しに立つと、布団から出て両手をついて待っていたほど。
あの斉昭もやめてくれと言っても、聞かなかったそうです。

将軍となった慶喜は、皇室への尊敬の念が強いものでした。

鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」が翻ると即座に退却を決めたほど。
それも、公家出身の母への敬意もあったのかもしれません。

武力倒幕は岩倉や薩摩藩ですら「下策」としていた!なのにナゼ西郷は強引に?

と ...

続きを見る

そんな吉子が苦難にぶつかったのが、幕末です。

夫は死去。
我が子・慶喜は将軍として江戸や京都。
水戸藩主・慶篤までも死亡。
そんな水戸藩を守る精神的支柱は、吉子であったのです。

戊辰戦争の戦火が広がる中、水戸藩は全藩屈指の内戦に陥り、悲惨な状況を迎えます。
藩校・弘道館と城本丸で銃撃戦が発生し、同じ藩士同士が殺しあう地獄の様相を呈しました。

それでも何とか持ったのは、吉子が本丸にとどまったこともあったからかもしれません。
精神的な主柱として、吉子はよく耐え抜きました。

徳川吉子/wikipediaより引用

慶喜ともども静岡に移ると、母子は親子らしい時間がやっと戻りました。
熱海温泉でゆっくりすることもあったそうです。

激動の時代を生きた吉子に、そんな晩年があったのは幸いなことでした。

徳川慶喜(一橋慶喜)77年の生涯をスッキリ解説【年表付き】大政奉還後にも注目

徳 ...

続きを見る

 

松平照松平容保義姉)

姫というのは、大抵は誰かの妻か母として名を残すもの。
そんな中での例外が、義弟・容保とともに会津戦争を戦い抜いた照姫(てるひめ)です。

2013年大河ドラマ『八重の桜』では、稲森いずみさんが演じました。

容保に淡い恋心を抱いていたように描かれた照姫。完全なフィクションというわけでもなく、史実でもそうではないかと思わせるところがあります。
史実でも元婚約者であり、濃密な関係にあり、戦友でもあった姫でした。

上坂飯野藩主・保科正丕の姫として生まれた彼女は、松平容敬の養女となりました。
将来、しかるべき婿を迎え、会津藩主夫人となるため、照姫は厳しい教育を受け、才知溢れる女性に育ちます。

そんな彼女にとって、将来の婿である義弟・容保が美濃高須家よりやってきます。
お互い夫婦になることを夢見て、姉と弟は育ったことでしょう。

松平容保とは? 会津藩祖・保科正之の教訓に縛られた悲劇の血筋

天 ...

続きを見る

しかし、容敬に敏姫という娘が生まれたため、この婚約は取り消されてしまいます。
容保はこの敏姫を妻としたのです。

婚約者を失った照姫は、豊前中津藩主・奥平昌服に嫁ぎました。

先進的な家老である山川重英(山川浩・健次郎・大山捨松らの祖父)は、敏姫に種痘接種を勧めていたものの、御典医の反対により実現しませんでした。
そしてこの敏姫は天然痘に罹り、美貌を失ってしまいます。
結果、気鬱気味になり、夭折してしまったのです。

そんな中、照姫は自らの意思で離婚し、実家の会津松平家に戻ります。
容保が京都守護職として会津を去る中、照姫は城を守るべくそこにいたのでした。

そんな彼女の祐筆は、高木時尾という藩士の娘でした。

この時尾は明治以降、藤田五郎の妻となります。
夫の幕末京都での名は斎藤一
新選組最強剣士の一人です。

斎藤一72年の生涯をスッキリ解説!謎多き新選組・最強剣士は会津に眠る

新 ...

続きを見る

そんな会津に、戊辰の戦火が迫ります。
女たちも戦おうとしてあるいは薙刀、あるいはスペンサー銃を装備し、立ち上がりました。

なぜ会津は長州を憎む? 会津戦争で降伏した若松城と藩士たちが見た地獄

戊 ...

続きを見る

「照姫様をお守りする!」
女たちは、そう言い合っていたのです。

新島八重86年の生涯をスッキリ解説!最強の女スナイパーが同志社&赤十字に身を捧ぐ

慶 ...

続きを見る

照姫はそんな女たちを束ねる存在でした。

砲弾が飛び交う中、城中を見て回り、自ら負傷兵の看病にあたりました。

松平照/wikipediaより引用

落城後、照姫は容保とともに謹慎生活を送ります。
正室よりも、側室よりも、容保と過ごした時間が長い女性。
それが照姫でした。

強い精神的な支柱として、幕末会津を生き抜いたのです。

 

伊達保子(伊達慶邦夫人)

戦火に巻き込まれた大名夫人は、苦労したものでした。

二本松から米沢まで、60キロを逃げ延びた丹羽長国と正室・久子。
戦火の中、北の大地を逃げ惑い、その最期すらわからない松前崇広正室・維子と松前徳弘夫正室・光子。

そして屯田兵を率いる夫とともに、海を越えた姫もいます。
伊達慶邦正室・保子(やすこ)もそんな一人です。

北海道開拓といえば、フロンティア精神で頑張ったようなざっくりとしたイメージがあります。
が、そんな甘いものじゃありません。

明治政府としては、
「流刑と開拓の一石二鳥だろ。米も味噌もないけど、せいぜい頑張ってくれよな」
くらいのノリなんです。

明治時代の北海道開拓はとにかく過酷!敗者、屯田兵、新選組、囚人、ヒグマ

以 ...

続きを見る

屯田兵とは? 知られざる北海道開拓の歴史 北の大地は氏族や伊達家等も耕した!?

皆 ...

続きを見る

姫の中でも、屈指の苦難ルートでした。

城で暮らしていた姫が、開拓小屋での暮らしへ。
それが保子の明治時代です。

伊達成実を祖とする亘理伊達家邦実正室であった保子。
亘理伊達家は、戊辰戦争敗戦で領地を失い、明治政府から際どい二択をつきつけられます。

「南部で帰農するか、北海道開拓か?」

帰農なんて、プライドが許さない。
いくら大変だろうと、北海道開拓しかない!

そう決意した邦成は、保子にとって養嗣子にあたります。
義母である保子は、我が子の決意を応援します。
北海道開拓を成し遂げてこそ、汚名回復であり、新たな国に尽くす道でした。

開拓する暮らしは厳しく、屯田兵となった伊達家の家臣たちは木の根を食べることすらありました。
そんな中、保子は手製の団子をふるまい、人々を励まして回ったのです。

産業にも関心を持ち、開墾地を見回り、養蚕を励ます保子。
恒例の保子が労を惜しまぬ様子を開拓者は心配して、墓参りのためにも東京で暮らしてはいかがかと提案します。

しかし、保子は応じません。
働き続けます。

そんな保子に恥じぬよう、旧伊達君臣は開拓に励み、強い一致団結を持つことで知られるようになるのです。

そんな保子は、いつしかこう呼ばれました。

「伊達開拓の母」
保子の力もあり、北海道という新天地に名を残した亘理伊達家の開拓者たち。
その名は「北海道伊達市」として今も残されています。

 

絲(ル・ジャンドル夫人)

「らしゃめん」という言葉がかつてありました。

漢字では「洋妾」と書き、西洋人の妻妾となった女性を蔑む言葉です。

斎藤きち(唐人お吉)の悲しすぎる最期 人々の勘違い偏見に追い込まれ……

人 ...

続きを見る

国際結婚――特に日本人女性が西洋人へ嫁ぐことを恥とする風潮は、明治以降もあったのです。

名門大名家の姫君から、らしゃめんへ。
そんな数奇な運命をたどった姫がいます。

松平春嶽の姫である絲(いと)です。

姫といっても、正室どころか側室ですらなく、春嶽のお手つきとなった侍女の産んだ子でした。

絲の実母は、子のない正室・勇姫への配慮もあったためか、女児を産み落とすと自害してしまいます。
一方で父・春嶽は京都まで赴き、心労の多い幕末政局を生きることとなるのでした。

松平春嶽(松平慶永)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!

幕 ...

続きを見る

舟方役人・池田兵衛に預けられたものの、絲は従者三人と手持金もつけられ、姫としての格式を保った暮らしを続けます。
しかし、これも維新まで。

新時代となると、池田家は娘を深川芸者とするほど暮らしに困窮してしまいました。
絲は養父の苦難に心を痛め、自らも志願して深川芸者となります。

明治維新後、没落した旗本や佐幕藩士の娘が芸者となることはよくありました。
しかし、大大名の姫でそこまで零落した例は、絲くらいではないでしょうか。

そんな絲(16歳)に目をつけ、落籍しようとしたのは、フランス系アメリカ人のチャールズ・ル・ジャンドル(43歳)でした。

親子ほどの年齢差だけでも厳しいのに、相手は西洋人です。
嫌がる絲ですが、明治政府はル・ジャンドルをお雇い外国人として雇用したくて仕方ありません。

伊藤博文大隈重信といった錚々たる大物政治家に、
「お国のためだと思って!」
と説得された、16歳の絲に断れる術はありません。

まるで人身御供に捧げられるような悲壮な決意を固め、彼女は「椿御殿」と呼ばれるほど立派な屋敷に嫁ぎました。

絲は「松平春嶽公の姫だと名乗らないのですか」と問われると、「大名が嫌いだ」と答えたそうです。
母自害のいきさつを知っており、その痛みを忘れなかったのです。

夫妻の間に生まれた愛子という女児は、何不自由ないご令嬢として生きてゆきました。
しかし、夫妻にはもう一人、子がいたのです。

愛子の七歳年上の兄であるこの子は、養子に出されました。
ル・ジャンドルが男児誕生を望まなかったため、絲は夫に無断で深川芸者時代の知り合いに預けてしまったのです。

録太郎と名付けられたこの男児は、やがて歌舞伎役者の養子となりました。

この録太郎は美貌で大人気、「花の橘屋」と呼ばれる時代を代表すると名優となりました。

15代目・市村羽左衛門です。

市村羽左衛門 (15代目)/wikipediaより引用

彼と愛子は、生き別れの兄妹であると本人だけは知っていました。
しかし、人気俳優となった兄のこともあり、醜聞となることを恐れて秘密とされてきたのです。

あまりに悲しい兄と妹でした。
彼らの秘密が明かされたのは、その死後であったのです。

羽左衛門は母親に似たのか、黒い目をした日本人的な容貌でした。
周囲が怪しむこともなかったようで、兄妹はその秘密を隠したまま、生きてゆくことになるのでした。

今でも国際結婚をした歌舞伎役者の家系に対して、
「純粋な日本人以外の血を引く歌舞伎役者がいてもよいものか?」
と、差別的なことを言う人がいるようです。

が、そういう人には、既に存在していて、しかも伝説的な名優だったのだ!と、キッパリと答えてあげましょう。

鹿鳴館の華。
イタリア王妃のお気に入り。
籠城戦を指揮する勇姿。
開拓の母。

勝った側も、負けた側も、姫たちは懸命に生き抜きました。
表舞台にはあまりでないかもしれませんが、立派な生き方がそれぞれあったのです。

幕末や明治は男性だけの時代であったか?
それは違います。
女性たちも、懸命に生きていたのでした。

文:小檜山青

【参考文献】
『姫君たちの明治維新』岩尾光代(→amazon link
『カメラが撮らえた幕末三〇〇藩 藩主とお姫様』(→amazon link
『カメラが撮らえた幕末・明治の肖像』(→amazon link
国史大辞典

 



-幕末・維新

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.