久坂玄瑞/wikipediaより引用

幕末・維新 西郷どん特集

久坂玄瑞25年の生涯をスッキリ解説!幕末No.1のモテ男は松陰の遺志と共に……

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幕末で最もモテたのは誰か?

そう問われたら、優勝候補の一人となるのが長州藩の俊才・久坂玄瑞でしょう。
特に幕末京都での人気は凄まじいもので。

「あなたにとって一番のイケメンは誰ですか?」
とインタビューしたら、
「長州のお侍さんはええね。金離れもええ」
「長州いうたらやっぱり久坂さんやわぁ。イケメンやし、イケボやし、スタイルええし」
「久坂さんがあの声で詩を吟じているの聞いたけど、ほんまええ声で……」
みたいになるんじゃないかと思います。

肖像画は実子・秀次郎をもとに描かれたもので、本人ではありません。
しかし、当時の本人はレジェンド級のイケメンかつ長身でインテリというモテ要素がギュッと詰まった方でした。

それが25年という若さで亡くなってしまうのですから、ドラマ性まで伴って、もはや伝説かもしれません。

本稿では屈指のモテ男だった久坂玄瑞の生き様、軌跡に注目してみたいと思います。

 

萩城下一のイケメンは松陰妹・文のハートを掴む

身長は180センチを超え、誰もが聞き惚れるような美声の持ち主。
しかも色白のイケメン。

萩城下で誰もがウットリしたであろう久坂玄瑞に恋をしたのは、あの吉田松陰の三番目の妹である文(美和子)でした。
2015年大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインとしてもおなじみですね。

久坂18才、文15才の時、二人は結婚。
これがなかなか大変なエピソードがありまして。

仲人の中谷正亮と久坂とは、こんなやりとりがありました。
松陰先生の妹・文さんと、結婚しんさい」
「あねえなブスはわしの好みじゃない」
「は? お前は結婚相手をルックスで選ぶそ? つまらん男じゃのぉ」
女としては屈辱的な逸話であるにも関わらず、文は夫を心の底から愛しておりました。

そんな久坂の生誕は天保11年(1840年)。
1827年生まれの西郷と比べると13才下になります。

吉田松陰/wikipediaより引用

 

幸福な幼年時代と、その哀しい終焉

久坂の生まれは長門国・萩です。

父は藩医の久坂良迪(りょうてき)
母は庄屋の娘であった富子。
久坂家は寺社組、禄は25石です。決して高い家格ではありません。

久坂の幼年時代は、なかなか穏やかで楽しいものであったようです。
凧揚げや竹馬で遊び、梨や棗(なつめ)の実を食べる、そんな幼年時代でした。

二人の兄がおりましたが、次兄は早世しております。
長兄・玄機(げんき)は、20才も年長で、緒方洪庵の元で学び、長崎へも留学。
西洋医術も修めつつ、早くから種痘の有効性に目をつけ導入するという、見識の優れた人物でした。

玄機は、尊皇攘夷の僧侶として知られる妙円寺住職・月性とも交流がありました。

そんな人物ですと、勝海舟福沢諭吉五代友厚のような、開明的な蘭学好きかと思われそうです。
が、玄機の場合は違いました。
彼はむしろ攘夷論に傾いていたのです。こうした兄の言動は、弟にも大きな影響を与えました。

貧しいけれど、幸せな幼年時代。
志と知識にあふれた、敬愛できる兄。

久坂は、美声と美貌、そして才知に恵まれた少年に成長してゆきます。
萩城下の人々は、才気溢れる美少年・久坂のことを行く末楽しみな若者として、見守っていたのです。

しかし、そんな幸福な少年時代は、突如、終わりを迎えるのでした。

 

戻らぬ幸福の日々、のしかかる責任

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーの黒船が来航します。
そしてその翌年、安政元年(1854年)には日米和親条約が締結。

 

そんな激動の幕末が始まったころ、久坂の身に大きな不幸が襲いかかりました。

母・富子が死去したのですが、それだけではありません。

このころ兄の玄機は、黒船来航後の政策について、藩から意見を求められていました。
日夜そのことを考え、過労気味となり、玄機も急死してしまいまったのです。享年35の若さでした。

さらには父・良迪(りょうてき)までもが、二男・玄瑞を跡継ぎとして藩に申請しようとしていた最中に急死してしまうのです。
妻子を失い、極度のストレスにさらされていたことが引き金かもしれません。

かくして、わずか一年ほどの間に、まだ15才の久坂は一家全員を失ってしまいました。

久坂は家を継ぐため、秀三郎から玄瑞と改名し、剃髪しました。
まだ中学生くらいの少年が、一家を全員失い、家を継がねばならない――想像するだけでも、厳しく哀しい状況です。

天涯孤独の久坂の面倒をみてくれたのは、兄の友人たちでした。
久坂は哀しみを紛らわせるように、一身に学問に打ち込みます。

 

吉田松陰と熱血トークバトルから入塾へ

父と兄の三回忌のあと、17才の久坂は九州を遊歴します。

このとき宮部鼎蔵とも交流。
話題はもっぱら外交でした。
ともに横暴なアメリカに立ち向かおうと、盛り上がります。

帰国後の久坂は、吉田松陰という人物に手紙を書いてみることにしました。

松陰は、宮部鼎蔵とともに東北視察旅行をしたことがありまして。ペリー相手に「黒船に乗せて欲しい」と頼みこんだこともある異色の人物です。
実際、このときの行動のせいで逮捕&入牢処分を受けていた松陰。
当時は自宅謹慎中の身でした。

見識豊かで、行動力もある。
そんな松陰は、攘夷の志を抱く萩の人々の間で、話題の人物でした。

「そねえに凄い男ならば、実力を試してみたいもんじゃ」
久坂はそう考え、松陰に手紙を書きました。

内容は、黒船来航以来の世相を嘆き、絶対に攘夷をしちゃるんだ、と語る――そんな熱血青春トークです。

これに対して、松陰は無慈悲なまでに、久坂をコテンパンにしてしまいます。

「きみの意見は軽薄で、浅い。心の底から言うちょらん。ただ世相に対して怒って、注目を集めたい、チャラい人なら誰でも思いつきそうなもんじゃよ。わしゃこねえな奴が一番嫌い。ともかく嫌いじゃ。大嫌いじゃ。もっと自分の立場から、誠実に、利害や打算を無視して考えんさい」

早熟な秀才として知られた久坂は、カチンと来ます。何様だ!というわけです。
一方の松陰は、久坂をボコボコにけなしながら、ピンと来るものを感じていました。

これはいい、才能がある若者であると。

もし、ここで逃げたら、所詮その程度の男。逆に、激怒して食いついてきたら、これは素質があると考えたわけです。
松陰なりの試験ですね。

松下村塾

二人は、手紙を通して激しい論戦を繰り広げます。

久坂は知識でマウントを取ろうとしました。
ソースはこれだけある、俺はこんなにも知識があって、時勢を見て危機感を抱いているのだと。

しかし、松陰はそうではないのです。

「自分の立場から、地に足をつけて、物事を考える。きみにゃあそれができちょるのか。わしゃかつて、アメリカの使節を斬ろうとした。だが、そねえなんをしても百害あって一利なしであると、考えを改めたんじゃ。きみも想像してみんさい。アメリカの使節を斬ることを考えてみんさい。きみならば、どうする?」

そこまで言われて、久坂はハッとなりました。
確かに自分は、当事者だったらどうするかという想定が本気でできていない――。

久坂はこの人にはかなわんと感じ入り、そして松下村塾に入門……したわけですが、実はそこまで熱心には通えなかったようです。

あくまで本業は医者であり「好生館」での医学勉強がメインです。
その合間に通っていたのでした。

 

松下村塾の龍虎 高杉とライバルだった

10才も歳下ながら、才知溢れる久坂にすっかり惚れ込んでしまった吉田松陰。
そんな最中の安政4年(1857年)、久坂より1才年上の青年が松下村塾に入門してきました。

高杉晋作です。
彼の家は久坂とは異なり、家禄200石、代々藩主側近を輩出してきたエリート一家でした。

お坊ちゃまの出自であるせいか、高杉家からは、
「あねえなようわからん連中と関わってはいけん」
と、松下村塾通いをあまりよく思われていなかったようです。
そのため高杉は、同塾へこっそり通っておりました。

高杉晋作/Wikipediaより引用

身分を問わない隊員で構成された「奇兵隊」を組織した高杉は、ともすれば上下関係にこだわらない性格と思われがちです。

が、実際はそうではありません。
生涯、上級武士というプライドを持ち続けておりまして。

そんな高杉の問題点を、松陰は見抜きます。
学問や知識が不足しているにもかかわらず、態度が大きく、自己解釈をしてしまうのです。要は、お坊ちゃまなんですね。

そこで松陰は、高杉の前で久坂を褒める――そういう作戦を採りました。

久坂と高杉は幼少期に、同じ吉松淳三・主催の寺子屋に通っていたことがあります。
そのころから互いに意識はしていましたし、家格の点でいえば久坂ははるかに下です。

「なんでこねえな奴に、わしが負けるんじゃ!」
ライバル心をメラメラと燃やした高杉は、猛勉強に励みます。久坂も負けじと、努力するわけです。

二人のライバル心を燃やした結果、両者ともに力をつけました。
やがて二人は、塾生の中でも【龍虎】と呼ばれる双璧になったのです。

まるで名選手を数多く輩出する高校野球の監督のような、そんな松蔭の教育センスを感じますね。

龍虎二人の性格は対照的でした。

苦労人で人格者、優等生気質の久坂。
やたらときかん気が強く、プライドが高いエリートで、暴れん坊の高杉。

そんなライバル同士が、後の長州藩を引っ張っていくようになるから興味深いものです。

 

松陰の義弟となる

若くして家を継ぎ、苦労していた久坂。そんな久坂に、松陰は同情心があったのでしょう。

「妹の文を、久坂に嫁がせよう」
そう考えました。

かつて僧・月性は、
「妹さんは、桂小五郎に嫁がせたらよいのでは?」
と提案していました。
しかし松陰は、あえて久坂を選びます。

文が久坂に恋していたということもあるかもしれませんが、天涯孤独である久坂を気遣ったことと、その才知を見込んでいたからこそでしょう。

前述の通り、久坂はこの縁談を持ちかけられて、
「あねえなブスはわしの好みじゃない」
と言ったとはされていますが、めでたく二人は結婚します。安政4年(1857年)のことでした。

文は後に楫取美和子となる(前列右端の女性)/wikipediaより引用

新婚夫妻の生活は、杉家(松陰の実家)で始まりました。
『サザエさん』のマスオさん状態ですね。

ただ、新婚生活を楽しむことすらできないほど、情勢は激しく転変しておりました。
久坂は、結婚から僅か2ヶ月後には、江戸へ遊学するため、家を出るのです。

 

江戸、そして動乱の京都へ

江戸に出た久坂は、貪欲に知識を吸収、京都にも赴きました。

当時の江戸と京都は、動乱の渦中にありました。
日米和親条約に対する勅許をめぐり、揺れに揺れていたのです。

そんな京都で久坂は、小浜藩の梅田雲浜とも知り合っています。
久坂や小浜のような尊王攘夷派の者たちは、孝明天皇以下朝廷が、条約に対して断固たる拒否の姿勢を取ったことを、喜ばしく感じていました。

しかし、こうした勅許を得るためのゴタゴタが、どういう結果をもたらすのか。
久坂は理解していなかったことでしょう。

幕府の大老には、井伊直弼が就任しました。
そして、この困難な難局を乗りきるため、井伊は剛腕を発揮します。

井伊直弼/wikipediaより引用

幕府が必死に勅許工作をしていた、その間隙をぬって、水戸藩に「戊午の密勅」をくだされたことに激怒。
その内容は、倒幕をそそのかすものでもあり、とても見過ごせませんでした。

同時に井伊は、「戊午の密勅」の背後に、一橋慶喜を次期将軍に推していた「一橋派」の暗躍がある、と睨んでいました。

実際、一橋派の首魁である水戸・徳川斉昭の関与は間違いありません。

にわかにキナ臭くなっていた状況を危険視した長州藩は、京都にいる久坂ら藩士に帰国を命じます。

久坂は藩邸を出て、梅田のところで潜伏した後、藩の許可を得て江戸に向かい、村田蔵六(のちの大村益次郎)のもとで学問を修めることにしたのでした。

 

政治に絶望する松陰

こうした政治の動きに、松陰は絶望していました。
彼は開国に反対し、一橋派こそ正義であると考えていたのです。

しかし、井伊は条約締結を断行し、一橋派の望みである慶喜を次期将軍とする企みも挫いてしまいました。

思い詰めた松陰は、だんだんと過激な言動を行うようになります。
「こうなったら、老中・間部詮勝を暗殺するしかない!」

晩年の間部詮勝/wikipediaより引用

「井伊の赤鬼」に対して、「青鬼」と呼ばれてい間部。
幕府の中枢を狙うという松陰の計画を察知した藩は困り果て、自宅軟禁の末に投獄します。

江戸にいる久坂にも、この危険な計画を促す書状が届きます。

松陰の意を知った久坂や高杉らも、
「さすがに、この計画は無理じゃ。落ち着いて考え直そう」
と、翻意を促しますが、松陰はかえって激怒し、絶交すら言い出します。

ますます情勢がおかしくなる中、長州藩は幕府に忖度して、久坂の江戸遊学を打ち切らせました。
3年の予定が1年になり、久坂はさぞや落胆したことでしょう。

 

松陰、無念の最期

帰国した久坂は、獄中の松陰を訪れ和解しました。
その直後、松陰は江戸に送られることとなったのです。

このとき江戸に向かう松陰は、死を覚悟していたかのようにドラマやフィクションでは描写されます。

しかし、実際のところ、この時点ではさしたる嫌疑はかけられておりません。

松陰にかけられた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との交際に関してのものと、幕府中傷文書の作成についてでした。
確かに梅田は幕政批判で処罰されますが、松陰については大した容疑ではなく、幕府側も彼をそこまで重視してはおりません。

幕府にとってのメインターゲットは、あくまで「戊午の密勅」背後にいた水戸藩関係者や、橋本左内など、一橋派の中で大きな役割を果たした者たちでした。

梅田雲浜/Wikipediaより引用

ところが、です。
訊問の場で松陰は、老中・間部詮勝暗殺計画を自白するのです。

一体なぜそんなコトを口に出したのか?
さすがに意味がわからないという方も多いでしょう。
もしかしたら捨て身の覚悟を見せることで世の中を動かしたいと考えた――そんな至誠の気持ちの発露であったのかもしれません。

驚いたのは、当時の幕府側も同じです。
「たいした容疑ではなかったのに、なんだかすごい者が出てきてしまった」

老中暗殺を計画して、しかもそれを白状して生存できるはずはありません。
かくして、松陰は斬首されてしまいました。
享年30。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

死を前にして、松陰は久坂ら弟子たちに、そう辞世を残しています。
が、江戸で処刑に立ち会った長州藩士・井原孫右衛門の評価は、辛辣でした。

「才能があるそにもったいないことだ。周囲がチヤホヤしすぎて勘違いしたのじゃろう。まったく暴発して、危険な若者じゃのぉ」

しかし、この無謀な若者の死は、やがて日本を大きく動かすのです。

 

松陰伝説化の始まり

「わが終わりにわが始めあり」
とは、スコットランド女王メアリー・スチュアートが断頭台で言った最期の言葉とされています。

これは松陰に関してもあてはまるものでして。
首が処刑場に落ちた瞬間から、彼の短い生涯は伝説によって彩られ始めます。

もしも誰かが松陰の生涯を輝かせ、語り継ぎ、言葉を書き残し、伝説としなかったら――小さな家に過ぎない「松下村塾」が世界遺産になることもなかったことでしょう。
同世代で、同じく「安政の大獄」に散った橋本左内と松陰は、およそ150年後の現在では知名度にかなりの差があります。

橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

その松陰伝説化のプロデューサーが、他ならぬ久坂でした。

松陰と久坂は純粋な人とされています。
確かに松陰は純粋で、誠意とともに生きた人物でした。

しかし、久坂はそう単純ではありません。
必要となれば策を用いることもあり、人心掌握に関しては天才的なものがありました。
彼はその知略を、師であり義兄である松陰の顕彰のために使うこととしたのです。

久坂の松陰プロデュースの内容は、以下の通りです。

・遺書『留魂録』の編纂
・伝記編纂の開始(未完)
・松下村塾のテキストに松陰の著作を採用する
・墓碑建立
・松陰の遺品(遺墨)を同志に配布する
・松陰の改葬
・松陰の霊を祭る
・他藩士にも松陰の偉大さを宣伝する

こうした久坂のプロデュース力は、おそらくや現在でも十分に通じる取り組みでしょう。
松陰は久坂の手によって、【誠実だけど無謀な若者】から、【誠意あふれる崇高な殉教者】と变化したのです。

久坂のこうした行為は、孤独な身の上である自分を受け入れてくれた義兄への、思慕や敬愛の念が根底にあるのでしょう。
しかし、ただそれだけではなく、己の主張の正統性を高めるという目的もなかったとは言えない。
そんな気がしてなりません。

 

東奔西走の日々

松陰の死後も、久坂は、杉家の援助を受けました。
杉家は文が誕生した頃から生活が上向いており、金銭面では余裕があったのです。

その潤沢な資金で、彼は尊皇攘夷活動に東奔西走するのでした。

弁舌さわやかなイケメンである久坂は、説得力抜群。
女性と遊ぶようなことがなかった師の松陰とは異なり、プレイボーイとしてもならしました。

彼のみならず、長州藩士たちは気前がよく、粋な遊び方で、京都人のハートをがっちりつかみます(※ちなみに、最もモテないワースト1は、貧乏で不器用で無粋な会津藩士でした)。
のちに長州藩士が窮地に陥ったときも、京都の市民たちはエールを送り続けたほどです。

久坂が美声で漢詩を吟じながら歩くと、京都色街の女性たちは熱狂しました。
「キャーッ、久坂はんやわあ!」
「ほんまにええ男~!」
「こっちを向いておくれやす~~~!!」
モテ男伝説ですね。
幕末京都モテ男ナンバーワンは、やはり彼ではないでしょうか。
妻である文にとっては、複雑な気持ちであったことでしょうが……。

久坂が交流したのは、むろん、色街の女だけはありません。

坂本竜馬
・吉田寅太郎
・武市瑞山
かような幕末著名人とも接触。
単に交流するわけではなく、松陰の偉大さを説くことも欠かしませんでした。

かくして吉田松陰の名は、久坂によって他藩にまで広まっていくのです。

長州は朝廷にとって特別な藩

幕末長州藩について知っておきたいことに、彼らの朝廷に対する距離感があります。

長州藩毛利家は、平城天皇の皇子である阿保皇子(一品)を先祖としており、家紋も縦に「一品」と読めます。

毛利家家紋/photo by 百楽兎 
wikipediaより引用

他のどの大名家よりも自分たちが最も皇室や朝廷に近い――それが彼らのアイデンティティでもあったのです。

「我らこそ、幕府と朝廷の間を取り持つ役目にゃあ最適じゃ」
そう考えた長州藩は、文久元年(1861年)、長井雅楽が献策した「航海遠路策」を提出します。

長井雅楽/wikipediaより引用

内容を要約すると、以下の通りです。

・朝廷は鎖国攘夷政策を改めて、そのことをふまえて幕府に命令を下す
・公武合体、一丸となって富国強兵を促進
・その上で、海外雄飛を目指そう

これを読むと、多くの方は、こう思うのではないでしょうか。

『悪くないじゃん! いいね、現実的だね』

実際この考え方は、長井一人のものではなく、当時合理的な考えを抱いている人ならば、似たような結論に至っておりました。
明治政府にしたって、幕府が消滅した代わりに新政府が行うようになったわけで、ほぼ同じことをしているわけです。

つまりは、正解、正論なのです。
幕府は当然賛成しましたし、孝明天皇も賛意を示しました。

孝明天皇は、妹・和宮の夫となった徳川家茂徳川慶福)が上洛した際、彼のことをえらく気に入りました。
妹のためにも、幕府と手をとって歩んでいこうと思ったとしても、何ら不思議はないわけです。

徳川家茂/wikipediaより引用

しかし、久坂ら松陰の門下生にすれば納得できません。

「松陰先生は幕府の開国に反対して、幕府によって殺されてしもうたんじゃ。こねえな策が受け入れられたら、先生の死が無意味になってしまう!」

そんな彼らの反発を買った長井は、文久3年(1863年)、尊王攘夷派から憎まれた挙句の果てに、切腹へと追い込まれてしまうのでした。

 

「奉勅攘夷」

このころ、長州藩にとっては甚だおもしろくないことが起こっていました。

文久2年(1862年)、島津久光が兵を率いて上洛。
西郷隆盛が「無謀」だと反対した計画ですが、幕末でこれほどインパクトを与える行動を与えた例は他にありません。

京都を抑えた久光は、大きな圧迫感と存在感でもって、幕末政治の表舞台に立ちます。
この上洛により、元一橋派の一橋慶喜、松平春嶽も政界に復帰しました。

久光の上洛の直後に「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起こります。
この事件で久光は、
【自分の藩の者であっても、朝廷に背く者は断固処理する】
ことを示したのです。
孝明天皇はじめ朝廷の久光に対する評価は、この果断によって一気に高まりました。

同年、久光の幕政改革案によって設置された京都守護職として、会津藩主・松平容保が上洛。
苦しい状況の中、再三辞退した挙げ句、ついに上洛することになってしまいました。

容保は、政治的には愚直なところがあり、同時に誠意あふれる性格です。
孝明天皇は、生真面目な容保のことを、ことのほか気に入りました。

が、これは、長州藩にとっては大変おもしろくありません。
朝廷にとってナンバーワンは自分たちだったのに、薩摩と会津が割り込んできたように思えたのです。

こうなったら、さらなる過激な攘夷を行って自己アピールするしかない!
かくして藩をあげて、勅命を奉じて攘夷をすること、すなわち「奉勅攘夷」がモットーになりました。

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