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【久坂玄瑞】
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松陰の義弟となる
若くして家を継ぎ、苦労していた久坂。そんな久坂に、松陰は同情心があったのでしょう。
「妹の文を、久坂に嫁がせよう」
そう考えました。
かつて僧・月性は、
「妹さんは、桂小五郎に嫁がせたらよいのでは?」
と提案していました。
しかし松陰は、あえて久坂を選びます。
文が久坂に恋していたということもあるかもしれませんが、天涯孤独である久坂を気遣ったことと、その才知を見込んでいたからこそでしょう。
前述の通り、久坂はこの縁談を持ちかけられて「あねえなブスはわしの好みじゃない」と言ったとはされていますが、めでたく二人は結婚します。
安政4年(1857年)のことでした。
新婚夫妻の生活は、杉家(松陰の実家)で始まりました。『サザエさん』のマスオさん状態ですね。
ただ、新婚生活を楽しむことすらできないほど、情勢は激しく転変しておりました。
久坂は、結婚から僅か2ヶ月後には、江戸へ遊学するため、家を出るのです。
江戸、そして動乱の京都へ
江戸に出た久坂は、貪欲に知識を吸収、京都にも赴きました。
当時の江戸と京都は、動乱の渦中。日米和親条約に対する勅許をめぐり、揺れに揺れていたのです。
そんな京都で久坂は、小浜藩の梅田雲浜とも知り合っています。
久坂や小浜のような尊王攘夷派の者たちは、孝明天皇以下朝廷が、条約に対して断固たる拒否の姿勢を取ったことを、喜ばしく感じていました。
しかし、こうした勅許を得るためのゴタゴタが、どういう結果をもたらすのか。
久坂は理解していなかったことでしょう。
幕府の大老には、井伊直弼が就任しました。この困難な難局を乗りきるため、井伊は剛腕を発揮します。
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幕府が必死に勅許工作をしていた、その間隙をぬって、水戸藩に「戊午の密勅」をくだされたことに激怒。その内容は、倒幕をそそのかすものでもあり、とても見過ごせませんでした。
同時に井伊は【戊午の密勅】の背後に、一橋慶喜を次期将軍に推していた「一橋派」の暗躍がある、と睨んでいました。
実際、一橋派の首魁である水戸・徳川斉昭の関与は間違いありません。
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にわかにキナ臭くなっていた状況を危険視した長州藩は、京都にいる久坂ら藩士に帰国を命じます。
久坂は藩邸を出て、梅田のところで潜伏した後、藩の許可を得て江戸に向かい、村田蔵六(のちの大村益次郎)のもとで学問を修めることにしたのでした。
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政治に絶望する松陰
こうした政治の動きに、松陰は絶望していました。
彼は開国に反対し、一橋派こそ正義であると考えていたのです。
しかし、井伊は条約締結を断行し、一橋派の望みである慶喜を次期将軍とする企みも挫いてしまいました。
思い詰めた松陰は、だんだんと過激な言動を行うようになります。
「こうなったら、老中・間部詮勝を暗殺するしかない!」
「井伊の赤鬼」に対して、「青鬼」と呼ばれてい間部。
幕府の中枢を狙うという松陰の計画を察知した藩は困り果て、自宅軟禁の末に投獄します。
江戸にいる久坂にも、この危険な計画を促す書状が届きます。
松陰の意を知った久坂や高杉らも「さすがに、この計画は無理じゃ。落ち着いて考え直そう」と、翻意を促しますが、松陰はかえって激怒し、絶交すら言い出します。
ますます情勢がおかしくなる中、長州藩は幕府に忖度して、久坂の江戸遊学を打ち切らせました。
3年の予定が1年になり、久坂はさぞや落胆したことでしょう。
松陰、無念の最期
帰国した久坂は、獄中の松陰を訪れ和解しました。その直後、松陰は江戸に送られることとなったのです。
このとき江戸に向かう松陰は、死を覚悟していたかのようにドラマやフィクションでは描写されます。
しかし、実際のところ、この時点ではさしたる嫌疑はかけられておりません。
松陰にかけられた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との交際に関してのものと、幕府中傷文書の作成についてでした。
確かに梅田は幕政批判で処罰されますが、松陰については大した容疑ではなく、幕府側も彼をそこまで重視してはおりません。
幕府にとってのメインターゲットは、あくまで「戊午の密勅」背後にいた水戸藩関係者や、橋本左内など、一橋派の中で大きな役割を果たした者たちでした。
ところが、です。
訊問の場で松陰は、老中・間部詮勝暗殺計画を自白するのです。
一体なぜそんなコトを口に出したのか?
さすがに意味がわからないという方も多いでしょう。
もしかしたら捨て身の覚悟を見せることで世の中を動かしたいと考えた――そんな至誠の気持ちの発露であったのかもしれません。
驚いたのは、当時の幕府側も同じです。
「たいした容疑ではなかったのに、なんだかすごい者が出てきてしまった」
老中暗殺を計画して、しかもそれを白状して生存できるはずはありません。
かくして、松陰は斬首されてしまいました。
享年30。
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
死を前にして、松陰は久坂ら弟子たちに、そう辞世を残しています。
が、江戸で処刑に立ち会った長州藩士・井原孫右衛門の評価は、辛辣でした。
「才能があるそにもったいないことだ。周囲がチヤホヤしすぎて勘違いしたのじゃろう。まったく暴発して、危険な若者じゃのぉ」
しかし、この無謀な若者の死は、やがて日本を大きく動かすのです。
松陰伝説化の始まり
「わが終わりにわが始めあり」とは、スコットランド女王メアリー・スチュアートが断頭台で言った最期の言葉とされています。
これは松陰に関してもあてはまるものでして。
首が処刑場に落ちた瞬間から、彼の短い生涯は伝説によって彩られ始めます。
もしも誰かが松陰の生涯を輝かせ、語り継ぎ、言葉を書き残し、伝説としなかったら――小さな家に過ぎない「松下村塾」が世界遺産になることもなかったことでしょう。
同世代で、同じく「安政の大獄」に散った橋本左内と松陰は、およそ150年後の現在では知名度にかなりの差があります。
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その松陰伝説化のプロデューサーが、他ならぬ久坂でした。
松陰と久坂は純粋な人とされています。確かに松陰は純粋で、誠意とともに生きた人物でした。
しかし、久坂はそう単純ではありません。
必要となれば策を用いることもあり、人心掌握に関しては天才的なものがありました。彼はその知略を、師であり義兄である松陰の顕彰のために使うこととしたのです。
久坂の松陰プロデュースの内容は、以下の通りです。
・遺書『留魂録』の編纂
・伝記編纂の開始(未完)
・松下村塾のテキストに松陰の著作を採用する
・墓碑建立
・松陰の遺品(遺墨)を同志に配布する
・松陰の改葬
・松陰の霊を祭る
・他藩士にも松陰の偉大さを宣伝する
こうした久坂のプロデュース力は、おそらくや現在でも十分に通じる取り組みでしょう。
松陰は久坂の手によって、【誠実だけど無謀な若者】から、【誠意あふれる崇高な殉教者】と变化したのです。
久坂のこうした行為は、孤独な身の上である自分を受け入れてくれた義兄への、思慕や敬愛の念が根底にあるのでしょう。
しかし、ただそれだけではなく、己の主張の正統性を高めるという目的もなかったとは言えない。そんな気がしてなりません。
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