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【久坂玄瑞】
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なぜ「攘夷」にこだわるのか?
ここで、何か気になってきた方がいると思います。
「攘夷でアピールするっていうけど、当時の人は攘夷のデメリットに気づかないの? そんなにノリノリだったの?」
そうではありません。
「攘夷なんて野蛮、最低最悪」と冷静に考えている人もいました。
「攘夷をダシにして自己アピールをしている」と喝破している者もいました。
幕臣の江間政発は「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰すための看板である」と回想。
五代友厚は「攘夷なんてしていたら、清やインドのように国が駄目になる」と指摘しております。
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当時、会津藩の家老であった山川浩となると、さらに辛辣極まりありません。
彼の著書『京都守護職始末』から引用してみましょう。
『京都では諸藩脱藩の武士などが)外国人を夷狄禽獣(いてききんじゅう)と呼び、嗷々(ごうごう)として鎖国攘夷を口にするが、さて一つとして確固とした定見があってのことではなく、はなはだしいものは昔の元寇とくらべて神風の霊験を頼むものさえある。』
【意訳】当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった。
それが、山川の指摘です。
山川は尊王攘夷派に苦しめられた会津藩士であり、しかも性格的に思った事をズバズバ言うタイプですので、そこは差し引いたほうがよいかもしれませんが。
敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!
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のちに長州藩の盟友となる薩摩藩は、島津斉彬よりさらに前の、斉興の代で攘夷は無理であると悟っておりました。
外国人殺傷事件「生麦事件」の結果、薩英戦争に突入してしまいますが、そのあとは完全に攘夷からは距離を置き、むしろイギリスと手を組んでいます。
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確かに戦争で打撃は受けた。しかし、貿易のチャンスを得たメリットは大きいもので、WIN-WINの関係を築くわけです。
薩摩藩の考え方は合理的です。
たしかに藩のトップであった島津久光は、異母兄の斉彬とは異なり、西洋の文物を好んでいたわけではなく、明治維新後も亡くなるまで髷を結っていたほどです。
そうした好悪の感情と、藩の利益を切り離すことができました。
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攘夷に益がないとなれば切り替え、丁寧にイギリスの使節をもてなしています。
戸惑いつつも、代表のハリスと握手をしているほどなのです。
一方、長州藩過激派は違います。
「松陰先生は攘夷のために生きて、幕府の開国に反対して、そうして幕府によって殺されてしもうたんじゃ。今更攘夷を辞めたら、先生の死が無意味になってしまう!」
彼らの掲げる理想は吉田松陰のもので、既にこの世の人ではないのです。
考えが、変わることはありません。
それと攘夷には、長州にとってメリットもありました。
◆民衆の反幕府感情を増幅させる
攘夷の結果、外国人が殺傷される
↓
被害者の出身国から、幕府が多額の賠償金を請求される
↓
賠償金のために増税、反幕府感情が増幅される
◆民衆の人気取り
攘夷の結果、外国人が殺傷される
↓
「やったッ、さすが長州さん!! 弱腰幕府にできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!」
↓
民衆や尊王攘夷派の間で人気が高まる
攘夷には長期的な視野で見るとマイナス点ばかりです。
賠償金に関しても、ブーメランとなって明治政府以降に持ち越される羽目になっております。
ただし、
【幕府の屋台骨を傾け、倒すこと】
に限って考えると、メリットはあったわけです。
「八月十八日の政変」
孝明天皇は、だんだんと焦り始めていました。
身に覚えのない勅令が出されている。
「天皇陛下に逆らうんか!」と、頼んでもいないのに勝手な行動をする者がいる。
なぜこんなことが?
天皇は、悩みました。
実は、長州藩と息の合う攘夷過激派の公卿たちが、勅令を出していたのです。
その結果、上洛した将軍家茂が実行不可能な攘夷の約束をさせられたり、孝明天皇の意図だとして外国船砲撃が行われたり、大変な事態に陥っていました。
孝明天皇の深い悩みも知らず、久坂は久留米藩の真木和泉とともに、ある計画を画策していました。
「大和行幸」です。
天皇自ら神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げようという計画でした。
これを受けて、幕府はプレッシャーを感じるはずでした。
天皇自ら出てくる前に攘夷をせねば、政権を譲ることになるかもしれない――そう思うに違いない、と久坂と真木は考えたわけです。
この読みは、正しいと言えます。
幕政の中心にいた松平春嶽は、この時期、こう考えています。
「このままでは政治の命令が幕府と朝廷の二カ所から出ることになってしまう。朝廷から幕府に政権委任してもらうか、幕府が朝廷に政権を返すか選び、命令系統を統一せねばならない。さもなければ国が破綻しかねない!」(「政令帰一論」)
春嶽は家茂に政権放棄を迫り、逼塞処分を受けることになります。
もし久坂らの狙い通り大和行幸が実行に移されたら?
幕府も春嶽の言葉通り、そこで政権を返上したかもしれません。しかし、他ならぬ孝明天皇の我慢が限界に達しました。
天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。
「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんやろか……」
この思いが、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職・会津藩に伝わりました。
天皇の側近、長州藩の突出に不快感を抱く諸藩(藩主が京都所司代をつとめた淀藩、徳島藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩)が結託し、アンチ長州包囲網が形成されてゆきます。
こうして文久3年(1863年)8月18日深夜、薩摩と会津の兵に警護された御所から、以下の勅旨が出されました。
・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
・三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止
長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありませんでした。
「既に西へ帰るよう決められてしもうた。わしらの藩の勤王の道は、これでもう終わりなんじゃ……」
久坂はそう嘆きました。
長州藩は2千人の兵士と、三条実美ら失脚した7人の公卿とともに都を追われるほかありません。
勅をふりかざして政局をリードしてきた長州藩が、勅によって追い払われてしまったのです。
彼は、妻の文にこの事件をこう伝えました。
「18日に、いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ。けしからん、憎たらしいこと、本当に残念なことじゃ」
この「八月十八日の政変」は、公武合体派が長州藩を追い落とした事件とされていますが、その背後には孝明天皇の意志があったことは重要です。久坂には認められないことだったでしょうが。
どうもこのあたり、久坂はじめ尊王攘夷派は、孝明天皇を意志ある生身の人間というより、自分たちの言動を後押ししてくれる便利な概念として見ていたのではないかな、と思わなくもありません。
悪いのは「薩賊会奸」である
立ち塞がる逆境。
しかし、これでめげるような久坂ではありません。
長州側の見解は、こうでした。
「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いさあ、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ」
彼らはリベンジを誓いました。
積もった恨みを晴らすがごとく、「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。
久坂は、京都で長州藩に同情的な皇族や公卿に協力を打診しました。
金払いがよく、粋な遊びを好み、色街中心に豪遊した長州藩士は、町の人々にも大人気でした。
彼らにすれば、長州藩は憎い異人を追い払う正義の味方です。久坂は、その中心にいる、悲運のイケメンプリンスといったところでしょう。彼らはひそかに長州藩士にエールを送っていました。
とはいえ、いくら町人が長州藩を支持しようと、孝明天皇が動かせなければ無駄なのです。
長州藩では、朝廷に弁明の使者を送ろうとしますが、会津藩の反対により、伏見で止められてしまいます。
追い詰められた中で、久坂は養子に粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)を迎えました。
久坂も文もまだ20代前半で、実子を持つことは望めたでしょう。
しかし、それもその余裕があれば、の話。久坂は、自身の命運を予感していたのかもしれません。
沈む薩摩船と「上関三士」の死
長州藩では、薩摩への憎悪が募りに募っておりました。
「八月十八日の政変」の件もありますが、理由はそれだけではありません。
攘夷のトップリーダーは、かつて長州藩でした。
ところが薩摩藩が、生麦事件と薩英戦争を起こし、その座を奪ってしまったのです(薩摩側はそんなことを競ったつもりもないでしょうが)。
そんな最中、長州藩は、薩摩藩がイギリスと密貿易をしていることを嗅ぎつけます。
当時は南北戦争の最中であり、イギリスはアメリカから綿花を輸入できなくなっていました。
そこで、薩摩産綿花を買い付けることにしたのです。
「薩摩というさあ悪い連中じゃ。攘夷と言いながら、イギリスと貿易をしちょるじゃないか。化けの皮を剥がしちゃる」
文久3年(1863年)末。長州藩は外国船だと勘違いしたとバレバレの嘘をつき、薩摩船「長崎丸」を砲撃して撃沈します。
「まさか薩摩の船たぁ思わだった。外国船じゃと思うた。攘夷のつもりじゃった」というわけですね。
この事件で、薩摩藩士28名が死亡しました。
単に藩士が亡くなった――というわけではなく、航海術に長けた者が亡くなってしまい、薩摩藩は困ることになります。
藩内はむろん、久光も激怒。
しかし、ここで怒りを表明すれば、密貿易の件が明るみに出かねません。耐えるほかありませんでした。
そんな最中、別の事件が発生します。
元治元年(1864年)2月、周布・別府浦に停泊中の、薩摩商船が砲撃を受けて沈没したのです。
しかも、貿易商であった船主の姿は消えていました。
それから数日後――。
大阪に、船主の首が晒されました。
斬奸状によれば【外国との密貿易を行い天皇の意に背いたため、成敗した】とのことです。
首の前では、長州藩士の山本誠一郎と水野精一が切腹しており、発見時には事切れておりました。さらにそのあと、高橋利兵衛という男が、周布の寺で切腹しているのが発見されます。
商船砲撃および船主殺害は、この3名の仕業でした。
後に「上関三士」として、靖国神社に合祀される3名ですが、ここまでが表向きの話でして。
この話の裏には、策略がありました。
薩摩商船砲撃犯人は、実のところ不明でした。そこで久坂ら、藩の指導部は、薩摩を非難し、長州に同情を集める、一石二鳥の妙案を思いつきます。
藩主導の下、【命を捨てる】ということは伏せられたまま、「首を晒すための」実行部隊が集められました。
水野が名乗り出て、1人では足りないため山本も説得。
「この首を大阪に晒して来んさい」
そう命を受けた2人は、大阪に向かいます。
そして首を晒した2人が帰ろうとすると、おもむろにその足を止められるのです。
「ここで腹を切りんさい」
藩の非情な命令に対し、水野と山本は驚き逃れようとしますが、追いかけられて出来ないと悟り、腹を切りました。
山本はなかなか死のうとしないため、無理矢理介錯、つまりは殺害されました。
この策略は、久坂の読み通り当たりました。
「なんちゅうこっちゃ、薩摩は勝手に密貿易しとったんや!」
「穢らわしい夷狄相手に金儲けかいな、えげつないわ~」
「それに引き換え、長州のお侍さんは、たいしたもんやな。正義のために腹を切る。これぞ義士やで!」
大阪の人々は、薩摩藩の卑劣さに怒り、上関三士と長州藩に同情を寄せたのです。切腹現場には、忠臣の遺徳を偲び、民衆が押し寄せました。
かように久坂はじめ長州藩は、人心掌握術に長けておりました。ゆえに京都でも大阪でも大人気だったのです。
長州としても、この一件で大衆の心を掴んだことを確信したのでしょう。
この時期、島津久光殺害予告を大阪で配布しました。
しかし偉いのは、殺害予告された久光。
後世の作品では【短気・狭量・冷酷・愚昧】と散々な評価を受けがちな彼ですが、こうした挑発にぐっとこらえる器量を持ち合わせていたのです。
本当に悪評通りの性格ならば、ガチギレしていてもおかしくはないところ。
一方、久坂は、純粋過ぎて命を落とした青年志士というイメージがあります。
それだけが、彼の本質ではありません。
マキャベリズムも持ち合わせ、時に冷酷に振る舞う。そして適切に人々の心を引きつけ、世論を動かす。
そんな智力を、持つ男でした。
歯止めの利かない長州藩進発派
長州藩不在の京都では、政治的混乱が続いていました。
かつての一橋派がめざした、将軍後見職・一橋慶喜と、優れた大名による合議政治(「参預会議」)が行われるようになったのですが、うまくまとまらないのです。
さて、この状況をみて、長州藩はどうすべきか?
意見は真っ二つに分かれていました。
かつて「松下村塾」では、暴れん坊の高杉と、慎重な久坂と認識されていました。
が、この頃には逆転しています。
高杉は「久留米藩の大馬鹿者の真木和泉保臣と、わしらの藩の大馬鹿者の久坂。こいつらがグルになって何か企んだら、何をしでかすかわかったものじゃない」とボヤいておりました。
しかし結果は、進発派の勝利。高杉と周布が失脚し、京都進発が決定事項となったそのとき、衝撃的な事件が起こります。
「池田屋事件」です。
池田屋事件で新選組の近藤や沖田が突入! 攘夷派30名が排除され長州藩は窮地へ
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この事件は、京都を放火して天皇を拉致するクーデター計画を阻止するためだったとされていますが、そもそもそんな計画があったのかどうか、現在は諸説あります。
ただ、長州藩進発派上洛前夜のことであり、その計画がクーデターとして察知された可能性はあるわけです。
この事件で、長州藩士で「松下村塾」出身の吉田稔麿ら、
松下村塾で一番優秀だった吉田稔麿~知られざる俊英は池田屋事件で散ったのか
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多くの犠牲者が出ました。
長州藩進発計画は、弔い合戦の様相も帯びていくのです。
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