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【久坂玄瑞】
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東奔西走の日々
松陰の死後も、久坂は、杉家の援助を受けました。
杉家は文が誕生した頃から生活が上向いており、金銭面では余裕があったのです。
その潤沢な資金で、彼は尊皇攘夷活動に東奔西走するのでした。
弁舌さわやかなイケメンである久坂は、説得力抜群。女性と遊ぶようなことがなかった師の松陰とは異なり、プレイボーイとしてもならしました。
彼のみならず、長州藩士たちは気前がよく、粋な遊び方で、京都人のハートをがっちりつかみます(※ちなみに、最もモテないワースト1は、貧乏で不器用で無粋な会津藩士でした)。
のちに長州藩士が窮地に陥ったときも、京都の市民たちはエールを送り続けたほどです。
久坂が美声で漢詩を吟じながら歩くと、京都色街の女性たちは熱狂しました。
「キャーッ、久坂はんやわあ!」
「ほんまにええ男~!」
「こっちを向いておくれやす~~~!!」
モテ男伝説ですね。
幕末京都モテ男ナンバーワンは、やはり彼ではないでしょうか。妻である文にとっては、複雑な気持ちであったことでしょうが……。
久坂が交流したのは、むろん、色街の女だけはありません。
・坂本竜馬
・吉田寅太郎
・武市瑞山
かような幕末著名人とも接触。
単に交流するわけではなく、松陰の偉大さを説くことも欠かしませんでした。
かくして吉田松陰の名は、久坂によって他藩にまで広まっていくのです。
長州は朝廷にとって特別な藩
幕末長州藩について知っておきたいことに、彼らの朝廷に対する距離感があります。
長州藩毛利家は、平城天皇の皇子である阿保皇子(一品)を先祖としており、家紋も縦に「一品」と読めます。
他のどの大名家よりも自分たちが最も皇室や朝廷に近い――それが彼らのアイデンティティでもあったのです。
「我らこそ、幕府と朝廷の間を取り持つ役目にゃあ最適じゃ」
そう考えた長州藩は、文久元年(1861年)、長井雅楽が献策した「航海遠路策」を提出します。
内容を要約すると、以下の通りです。
・朝廷は鎖国攘夷政策を改めて、そのことをふまえて幕府に命令を下す
・公武合体、一丸となって富国強兵を促進
・その上で、海外雄飛を目指そう
これを読むと、多くの方は、こう思うのではないでしょうか。
『悪くないじゃん! いいね、現実的だね』
実際この考え方は、長井一人のものではなく、当時合理的な考えを抱いている人ならば、似たような結論に至っておりました。
明治政府にしたって、幕府が消滅した代わりに新政府が行うようになったわけで、ほぼ同じことをしているわけです。
つまりは、正解、正論なのです。
幕府は当然賛成しましたし、孝明天皇も賛意を示しました。
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孝明天皇は、妹・和宮の夫となった徳川家茂(徳川慶福)が上洛した際、彼のことをえらく気に入りました。
妹のためにも、幕府と手をとって歩んでいこうと思ったとしても、何ら不思議はないわけです。
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しかし、久坂ら松陰の門下生にすれば納得できません。
「松陰先生は幕府の開国に反対して、幕府によって殺されてしもうたんじゃ。こねえな策が受け入れられたら、先生の死が無意味になってしまう!」
そんな彼らの反発を買った長井は、文久3年(1863年)、尊王攘夷派から憎まれた挙句の果てに、切腹へと追い込まれてしまうのでした。
「奉勅攘夷」
このころ、長州藩にとっては甚だおもしろくないことが起こっていました。
文久2年(1862年)、島津久光が兵を率いて上洛。
西郷隆盛が「無謀」だと反対した計画ですが、幕末でこれほどインパクトを与える行動を与えた例は他にありません。
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京都を抑えた久光は、大きな圧迫感と存在感でもって、幕末政治の表舞台に立ちます。
この上洛により、元一橋派の一橋慶喜、松平春嶽も政界に復帰しました。
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久光の上洛の直後に「寺田屋事件(寺田屋騒動)」が起こります。
この事件で久光は【自分の藩の者であっても、朝廷に背く者は断固処理する】ことを示したのです。
孝明天皇はじめ朝廷の久光に対する評価は、この果断によって一気に高まりました。
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同年、久光の幕政改革案によって設置された京都守護職として、会津藩主・松平容保が上洛。苦しい状況の中、再三辞退した挙げ句、ついに上洛することになってしまいました。
容保は、政治的には愚直なところがあり、同時に誠意あふれる性格です。孝明天皇は、生真面目な容保のことを、ことのほか気に入りました。
が、これは、長州藩にとっては大変おもしろくありません。
朝廷にとってナンバーワンは自分たちだったのに、薩摩と会津が割り込んできたように思えたのです。
こうなったら、さらなる過激な攘夷を行って自己アピールするしかない!
かくして藩をあげて、勅命を奉じて攘夷をすること、すなわち「奉勅攘夷」がモットーになりました。
暴走する「攘夷」
文久2年(1862年)。
このままでは薩摩や会津に負けてしまうと、長州藩過激派は焦りました。
もう、こうなったら、さらなる攘夷アピールしかないんじゃ! そんな暴走状態に陥ってしまったのです。
外国公使暗殺(計画のみで未遂)。
イギリス公使館焼き討ち。
徳川家茂が上洛すると、根回ししてしつこく攘夷を誓うように画策します。
下関からは、通りがかる外国船を片っ端から砲撃。民間商船でも容赦しなかったため、国際法に照らしてもこれは大問題です。
かなりの危険行為で、外国に戦争を仕掛けられてもおかしくはありません。
こうした無謀な「小攘夷」(短絡的なヘイトクライム)は、国家を危険にさらすだけの愚行とも言えます。
案の定、アメリカとフランスから逆襲を受け、長州藩はとんでもない状況に陥ります。
こうした状況を打破するために、高杉晋作が急遽、結成したのが「奇兵隊」でした。
「奇兵隊」は武士以外の起用した隊であることから、高杉や久坂は身分にとらわれない平等の意識があった、とされています。
この点については保留が必要です。
武士以外が隊員とされたのは人員不足によるものでした。高杉にせよ、久坂にせよ、生涯武士としての誇りを持ち続けていました。
当時の武士としては「わしら武士が、民を率いてこそじゃ」という思いがありました。
これは藩を問わず、そんなものでした。
現代的な身分平等思想があったかどうかは、別の話です。
さて、この奇兵隊。
外国勢との戦争が終わるとさらに行動を始めます。
関門海峡を越えて、さらなる攘夷のために、小倉藩領にまで砲台を築き始めたのです。
長州藩に巻き込まれた小倉藩とすれば、砲台建設はたまったものではありません。勝手に砲撃されて外国船に攻撃されたらば、被害を被ってしまいます。
当然ですが、小倉藩は「止めてくれ」と訴えました。
が、長州藩は取り合いません。
「攘夷に協力せにゃあは、不甲斐ない連中じゃ。勅を得て砲台建設の許可を、朝廷から得よう」
かくして、長州藩過激派の意を汲む公卿により、小倉藩に攘夷を命じる勅令が出されてしまうのです。
あまりの暴走に驚いた幕府からの詰問使が、長州藩にやって来ます。
その使者は、斬殺されてしまいました。
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