久坂玄瑞/wikipediaより引用

幕末・維新

久坂玄瑞25年の生涯をスッキリ解説!幕末No.1のモテ男は松陰の遺志と共に……

更新日:

暴走する「攘夷」

文久2年(1862年)。
このままでは薩摩や会津に負けてしまうと、長州藩過激派は焦りました。

もう、こうなったら、さらなる攘夷アピールしかないんじゃ!
そんな暴走状態に陥ってしまったのです。

外国公使暗殺(計画のみで未遂)。
イギリス公使館焼き討ち。

徳川家茂が上洛すると、根回ししてしつこく攘夷を誓うように画策します。

下関からは、通りがかる外国船を片っ端から砲撃。
民間商船でも容赦しなかったため、国際法に照らしてもこれは大問題です。

かなりの危険行為で、外国に戦争を仕掛けられてもおかしくはありません。
こうした無謀な「小攘夷」(短絡的なヘイトクライム)は、国家を危険にさらすだけの愚行とも言えます。

案の定、アメリカとフランスから逆襲を受け、長州藩はとんでもない状況に陥ります。

こうした状況を打破するために、高杉晋作が急遽、結成したのが「奇兵隊」でした。

「奇兵隊」は武士以外の起用した隊であることから、高杉や久坂は身分にとらわれない平等の意識があった、とされています。
この点については保留が必要です。
武士以外が隊員とされたのは人員不足によるものでした。高杉にせよ、久坂にせよ、生涯武士としての誇りを持ち続けていました。

当時の武士としては、
「わしら武士が、民を率いてこそじゃ」
という思いがありました。

これは藩を問わず、そんなものでした。
現代的な身分平等思想があったかどうかは、別の話です。

奇兵隊/wikipediaより引用

さて、この奇兵隊。
外国勢との戦争が終わるとさらに行動を始めます。

関門海峡を越えて、さらなる攘夷のために、小倉藩領にまで砲台を築き始めたのです。

長州藩に巻き込まれた小倉藩とすれば、砲台建設はたまったものではありません。
勝手に砲撃されて外国船に攻撃されたらば、被害を被ってしまいます。

当然ですが、小倉藩は「止めてくれ」と訴えました。

が、長州藩は取り合いません。

「攘夷に協力せにゃあは、不甲斐ない連中じゃ。勅を得て砲台建設の許可を、朝廷から得よう」

かくして、長州藩過激派の意を汲む公卿により、小倉藩に攘夷を命じる勅令が出されてしまうのです。
あまりの暴走に驚いた幕府からの詰問使が、長州藩にやって来ます。

その使者は、斬殺されてしまいました。

 

なぜ「攘夷」にこだわるのか?

ここで、何か気になってきた方がいると思います。

「攘夷でアピールするっていうけど、当時の人は攘夷のデメリットに気づかないの? そんなにノリノリだったの?」

そうではありません。

「攘夷なんて野蛮、最低最悪」と冷静に考えている人もいました。
「攘夷をダシにして自己アピールをしている」と喝破している者もいました。

幕臣の江間政発は「幕末の攘夷とは、反対派を叩き潰すための看板である」と回想。
五代友厚は「攘夷なんてしていたら、清やインドのように国が駄目になる」と指摘しております。

当時、会津藩の家老であった山川浩となると、さらに辛辣極まりありません。

山川浩/wikipediaより引用

彼の著書『京都守護職始末』から引用してみましょう。

『京都では諸藩脱藩の武士などが)外国人を夷狄禽獣(いてききんじゅう)と呼び、嗷々(ごうごう)として鎖国攘夷を口にするが、さて一つとして確固とした定見があってのことではなく、はなはだしいものは昔の元寇とくらべて神風の霊験を頼むものさえある。』

【意訳】当時の京都では、脱藩浪士が外国人をケダモノ扱いして、やたらとうるさく鎖国攘夷だと叫んでいたけど、そんなものには一つとして確固たる定見なんてない。酷い奴は、元寇の時の神風を期待するオカルトレベルだった。

それが、山川の指摘です。
山川は尊王攘夷派に苦しめられた会津藩士であり、しかも性格的に思った事をズバズバ言うタイプですので、そこは差し引いたほうがよいかもしれませんが。

のちに長州藩の盟友となる薩摩藩は、島津斉彬よりさらに前の、斉興の代で攘夷は無理であると悟っておりました。

外国人殺傷事件「生麦事件」の結果、薩英戦争に突入してしまいますが、そのあとは完全に攘夷からは距離を置き、むしろイギリスと手を組んでいます。
確かに戦争で打撃は受けた。
しかし、貿易のチャンスを得たメリットは大きいもので、WIN-WINの関係を築くわけです。

薩摩藩の考え方は合理的です。

たしかに藩のトップであった島津久光は、異母兄の斉彬とは異なり、西洋の文物を好んでいたわけではなく、明治維新後も亡くなるまで髷を結っていたほどです。
そうした好悪の感情と、藩の利益を切り離すことができました。

攘夷に益がないとなれば切り替え、丁寧にイギリスの使節をもてなしています。
戸惑いつつも、代表のハリスと握手をしているほどなのです。

一方、長州藩過激派は違います。

松陰先生は攘夷のために生きて、幕府の開国に反対して、そうして幕府によって殺されてしもうたんじゃ。今更攘夷を辞めたら、先生の死が無意味になってしまう!」

彼らの掲げる理想は吉田松陰のもので、既にこの世の人ではないのです。
考えが、変わることはありません。

それと攘夷には、長州にとってメリットもありました。

◆民衆の反幕府感情を増幅させる

攘夷の結果、外国人が殺傷される

被害者の出身国から、幕府が多額の賠償金を請求される

賠償金のために増税、反幕府感情が増幅される

◆民衆の人気取り

攘夷の結果、外国人が殺傷される

「やったッ、さすが長州さん!! 弱腰幕府にできない事を平然とやってのけるッ! そこにシビれる! あこがれるゥ!」

民衆や尊王攘夷派の間で人気が高まる

攘夷には長期的な視野で見るとマイナス点ばかりです。
賠償金に関しても、ブーメランとなって明治政府以降に持ち越される羽目になっております。

ただし、
【幕府の屋台骨を傾け、倒すこと】
に限って考えると、メリットはあったわけです。

 

「八月十八日の政変」

孝明天皇は、だんだんと焦り始めていました。

身に覚えのない勅令が出されている。
「天皇陛下に逆らうんか!」と、頼んでもいないのに勝手な行動をする者がいる。

なぜこんなことが?
天皇は、悩みました。

孝明天皇/wikipediaより引用

実は、長州藩と息の合う攘夷過激派の公卿たちが、勅令を出していたのです。

その結果、上洛した将軍家茂が実行不可能な攘夷の約束をさせられたり、孝明天皇の意図だとして外国船砲撃が行われたり、大変な事態に陥っていました。
孝明天皇の深い悩みも知らず、久坂は久留米藩の真木和泉とともに、ある計画を画策していました。

「大和行幸」です。

天皇自ら神武天皇陵、春日社(春日大社)、伊勢神宮に参拝して攘夷祈願を行い、「攘夷親征(攘夷のために天皇自ら戦う)」の機運を盛り上げようという計画でした。

これを受けて、幕府はプレッシャーを感じるはずでした。
天皇自ら出てくる前に攘夷をせねば、政権を譲ることになるかもしれない――そう思うに違いない、と久坂と真木は考えたわけです。

この読みは、正しいと言えます。
幕政の中心にいた松平春嶽は、この時期、こう考えています。

「このままでは政治の命令が幕府と朝廷の二カ所から出ることになってしまう。朝廷から幕府に政権委任してもらうか、幕府が朝廷に政権を返すか選び、命令系統を統一せねばならない。さもなければ国が破綻しかねない!」(「政令帰一論」)

春嶽は家茂に政権放棄を迫り、逼塞処分を受けることになります。

もし久坂らの狙い通り大和行幸が実行に移されたら?

幕府も春嶽の言葉通り、そこで政権を返上したかもしれません。
しかし、他ならぬ孝明天皇の我慢が限界に達しました。

天皇は、信頼出来る側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)に嘆きます。

「誰ぞ、武で君側の奸をのぞく者はおらんやろか……」
この思いが、長州藩に敵意を抱く薩摩藩と、京都守護職・会津藩に伝わりました。

天皇の側近、長州藩の突出に不快感を抱く諸藩(藩主が京都所司代をつとめた淀藩、徳島藩、岡山藩、鳥取藩、米沢藩)が結託し、アンチ長州包囲網が形成されてゆきます。

こうして文久3年(1863年)8月18日深夜、薩摩と会津の兵に警護された御所から、以下の勅旨が出されました。

・大和行幸の延期
・国事参事、国事寄人の廃止
三条実美以下攘夷派公卿20名の参内禁止

長州藩は、御所堺町御門の警備任務を解かれ、都から撤退するほかありませんでした。

「既に西へ帰るよう決められてしもうた。わしらの藩の勤王の道は、これでもう終わりなんじゃ……」
久坂はそう嘆きました。

長州藩は2千人の兵士と、三条実美ら失脚した7人の公卿とともに都を追われるほかありませんでした。
勅をふりかざして政局をリードしてきた長州藩が、勅によって追い払われてしまったのです。

彼は、妻の文にこの事件をこう伝えました。
「18日に、いかにも悔しいことだが、悪人どもが禁裏を包囲して、おまけに堺町御門の警備を解いてしもうたんじゃ。けしからん、憎たらしいこと、本当に残念なことじゃ」

この「八月十八日の政変」は、公武合体派が長州藩を追い落とした事件とされていますが、その背後には孝明天皇の意志があったことは重要です。
久坂には認められないことだったでしょうが。

どうもこのあたり、久坂はじめ尊王攘夷派は、孝明天皇を意志ある生身の人間というより、自分たちの言動を後押ししてくれる便利な概念として見ていたのではないかな、と思わなくもありません。

 

悪いのは「薩賊会奸」である

立ち塞がる逆境。
しかし、これでめげるような久坂ではありません。

長州側の見解は、こうでした。

「わしらは孝明天皇の叡慮である攘夷を忠実に行っただけじゃ。功こそあれ、罪はない。悪いさあ、陛下をたぶらかせた薩摩と会津じゃ」

彼らはリベンジを誓いました。
積もった恨みを晴らすがごとく、「薩賊」「会奸」と下駄に書いて踏みつけて歩いた者もいたとか。

久坂は、京都で長州藩に同情的な皇族や公卿に協力を打診しました。

金払いがよく、粋な遊びを好み、色街中心に豪遊した長州藩士は、町の人々にも大人気でした。
彼らにすれば、長州藩は憎い異人を追い払う正義の味方です。
久坂は、その中心にいる、悲運のイケメンプリンスといったところでしょう。彼らはひそかに長州藩士にエールを送っていました。

とはいえ、いくら町人が長州藩を支持しようと、孝明天皇が動かせなければ無駄なのです。

長州藩では、朝廷に弁明の使者を送ろうとしますが、会津藩の反対により、伏見で止められてしまいます。
追い詰められた中で、久坂は養子に粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)を迎えました。

久坂も文もまだ20代前半で、実子を持つことは望めたでしょう。

しかし、それもその余裕があれば、の話。
久坂は、自身の命運を予感していたのかもしれません。

 

沈む薩摩船と「上関三士」の死

長州藩では、薩摩への憎悪が募りに募っておりました。
「八月十八日の政変」の件もありますが、理由はそれだけではありません。

攘夷のトップリーダーは、かつて長州藩でした。
ところが薩摩藩が、生麦事件と薩英戦争を起こし、その座を奪ってしまったのです(薩摩側はそんなことを競ったつもりもないでしょうが)。

そんな最中、長州藩は、薩摩藩がイギリスと密貿易をしていることを嗅ぎつけます。

当時は南北戦争の最中であり、イギリスはアメリカから綿花を輸入できなくなっていました。
そこで、薩摩産綿花を買い付けることにしたのです。

「薩摩というさあ悪い連中じゃ。攘夷と言いながら、イギリスと貿易をしちょるじゃないか。化けの皮を剥がしちゃる」

文久3年(1863年)末。
長州藩は外国船だと勘違いしたとバレバレの嘘をつき、薩摩船「長崎丸」を砲撃して撃沈します。

「まさか薩摩の船たぁ思わだった。外国船じゃと思うた。攘夷のつもりじゃった」
というわけですね。

当時の船舶イメージ(画像はオランダ製軍艦の開陽丸)/Wikipediaより引用

この事件で、薩摩藩士28名が死亡しました。
単に藩士が亡くなった――というわけではなく、航海術に長けた者が亡くなってしまい、薩摩藩は困ることになります。

藩内はむろん、久光も激怒。
しかし、ここで怒りを表明すれば、密貿易の件が明るみに出かねません。耐えるほかありませんでした。

そんな最中、別の事件が発生します。
元治元年(1864年)2月、周布・別府浦に停泊中の、薩摩商船が砲撃を受けて沈没したのです。
しかも、貿易商であった船主の姿は消えていました。

それから数日後――。
大阪に、船主の首が晒されました。
斬奸状によれば、
【外国との密貿易を行い天皇の意に背いたため、成敗した】
とのことです。

首の前では、長州藩士の山本誠一郎と水野精一が切腹しており、発見時には事切れておりました。
さらにそのあと、高橋利兵衛という男が、周布の寺で切腹しているのが発見されます。

商船砲撃および船主殺害は、この3名の仕業でした。

後に「上関三士」として、靖国神社に合祀される3名ですが、ここまでが表向きの話でして。
この話の裏には、策略がありました。

薩摩商船砲撃犯人は、実のところ不明でした。
そこで久坂ら、藩の指導部は、薩摩を非難し、長州に同情を集める、一石二鳥の妙案を思いつきます。

藩主導の下、【命を捨てる】ということは伏せられたまま、「首を晒すための」実行部隊が集められました。

水野が名乗り出て、1人では足りないため山本も説得。

「この首を大阪に晒して来んさい」
そう命を受けた2人は、大阪に向かいます。

そして首を晒した2人が帰ろうとすると、おもむろにその足を止められるのです。

「ここで腹を切りんさい」
藩の非情な命令に対し、水野と山本は驚き逃れようとしますが、追いかけられて出来ないと悟り、腹を切りました。
山本はなかなか死のうとしないため、無理矢理介錯、つまりは殺害されました。

この策略は、久坂の読み通り当たりました。

「なんちゅうこっちゃ、薩摩は勝手に密貿易しとったんや!」
「穢らわしい夷狄相手に金儲けかいな、えげつないわ~」
「それに引き換え、長州のお侍さんは、たいしたもんやな。正義のために腹を切る。これぞ義士やで!」

大阪の人々は、薩摩藩の卑劣さに怒り、上関三士と長州藩に同情を寄せたのです。
切腹現場には、忠臣の遺徳を偲び、民衆が押し寄せました。

かように久坂はじめ長州藩は、人心掌握術に長けておりました。
ゆえに京都でも大阪でも大人気だったのです。

長州としても、この一件で大衆の心を掴んだことを確信したのでしょう。
この時期、島津久光殺害予告を大阪で配布しました。

しかし偉いのは、殺害予告された久光でして。

後世の作品では【短気・狭量・冷酷・愚昧】と散々な評価を受けがちな彼ですが、こうした挑発にぐっとこらえる器量を持ち合わせていたのです。
本当に悪評通りの性格ならば、ガチギレしていてもおかしくはないところ。

島津久光/wikipediaより引用

一方、久坂は、純粋過ぎて命を落とした青年志士というイメージがあります。
それだけが、彼の本質ではありません。

マキャベリズムも持ち合わせ、時に冷酷に振る舞う。
そして適切に人々の心を引きつけ、世論を動かす。
そんな智力を、持つ男でした。

 

歯止めの利かない長州藩進発派

長州藩不在の京都では、政治的混乱が続いていました。

かつての一橋派がめざした、将軍後見職・一橋慶喜と、優れた大名による合議政治(「参預会議」)が行われるようになったのですが、うまくまとまらないのです。

さて、この状況をみて、長州藩はどうすべきか?
意見は真っ二つに分かれていました。

慎重派:高杉晋作、周布正之介(すふ まさのすけ)
進発派:久坂玄瑞

かつて「松下村塾」では、暴れん坊の高杉と、慎重な久坂と認識されていました。
が、この頃には逆転しています。

高杉は、
「久留米藩の大馬鹿者の真木和泉保臣と、わしらの藩の大馬鹿者の久坂。こいつらがグルになって何か企んだら、何をしでかすかわかったものじゃない」
とボヤいておりました。

しかし結果は、進発派の勝利。
高杉と周布が失脚し、京都進発が決定事項となったそのとき、衝撃的な事件が起こります。

池田屋事件」です。

龍馬は関係ない!池田屋事件スッキリまとめ それは新選組vs長州土佐でした

元 ...

続きを見る

この事件は、京都を放火して天皇を拉致するクーデター計画を阻止するためだったとされていますが、そもそもそんな計画があったのかどうか、現在は諸説あります。

ただ、長州藩進発派上洛前夜のことであり、その計画がクーデターとして察知された可能性はあるわけでして。
この事件で、長州藩士で「松下村塾」出身の吉田稔麿ら、多くの犠牲者が出ました。

吉田稔麿/wikipediaより引用

長州藩進発計画は、弔い合戦の様相も帯びていくのです。

 

文と辰路

久坂は動乱の京都に行く前、養子・粂次郎に一目会いたいと切望しています。
そこには、家族を思う切々たる思いが感じられるのです。

が、ここでちょっと突っ込みどころがありまして。

養子・粂次郎には会いたがるのですが、妻・文とは会おうとしないのです。

気を揉んだのか、文と松陰の兄である杉梅太郎が、萩で妹・文に会って欲しいと頼みますが、久坂は断ります。
久坂は文を好みの容姿ではないと述べておりますが、それが原因かどうかはともかく、彼女への熱烈な愛情はあまり感じられません。

残された手紙の文面も、事務的でした。
これは仕方ないことで、当時の人々にとって結婚とは、あくまで家の存続のためのものであり、恋愛感情がなくとも不思議ではないのです。

それでも文は、おそらく初恋の相手であった久坂を生涯慕い続けました。
亡夫の手紙を大事に保管し『涙袖帖』としてまとめるほどでして。

彼女はその後、姉の夫であった楫取素彦と再婚しますが、その際にも『涙袖帖』を持っていったそうです。
そして晩年まで、この『涙袖帖』を読み返していたのでした。

フィクションにおける久坂のロマンス相手は、文よりも、京の美妓として有名であった辰路の方が有名でした。
美男美女の絵のなるカップルとして、この二人は人気があったのです。

久坂と辰路の間には、秀次郎という男児が生まれております(母親は佐々木ひろ等、別人という説もあり)。

秀次郎は久坂家の跡継ぎとして認知。
久坂家に養子に入っていた粂次郎(文の姉・寿子と楫取素彦の子)は、実家に戻されました。

文からすれば、夫を失い、我が子として育てた粂次郎を戻さねばならず、家は愛人の子が継ぐわけで、かなり複雑な心境であったと思われます。

前述の通り、現在まで伝わる久坂の肖像画は、秀次郎をモデルとしたものです。

久坂玄瑞/wikipediaより引用

 

「禁門の変」に散る

運命の元治元年(1864年)6月。
久坂らは、三田尻を出航し京都を目指しました。

長州藩兵3千名が、伏見・嵯峨・山崎に着陣すると、これに対し、一橋慶喜は強硬に撤兵を要求します。

久坂はここで、世子・毛利元徳の到着を待つべきだと考えました。
これに納得できないのが、来島又兵衛です。
来島は、世子到着の前に「君側の奸を倒すべきだ」と主張します。

そんなことをしては朝敵になる、しかし退くに退けない――こうして久坂は、後戻りできない道へと踏み込んでゆきます。

禁門の変蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用

軍勢は三手に分けられ、それぞれが御所へ向けて進軍しました。

御所を守るのは、薩摩と会津。
奄美大島から復帰した西郷隆盛の奮闘もあって、来島は御所の前で撃退、戦死を遂げます。

久坂は、長州藩に同情的であった関白・鷹司輔煕邸へと撤退しました。
そこで鷹司にすがりつき、朝廷への参内を嘆願するのです。
が、そんな願いが聞き入れられるハズもなく、久坂は鷹司邸の門から出たところで越前藩兵に襲われ、左脚を負傷してしまうのでした。

傷は骨まで到達し、真っ赤な血が脚を染めてゆきます。
久坂の白い顔は、みるみるうちに蒼ざめました。久坂は手ぬぐいを傷口に巻き付け、屋敷内に戻ります。

傍らの寺島忠三郎は、久坂にこう声を掛けました。
「もうやろうか」

久坂は答えます。
「もうよかろう。殿に迷惑をかけるわけにゃあいかん。わしは腹を切る」

こうして追い詰められた久坂は、切腹して果てました。
享年25。

久坂の墓/photo by mariemon Wikipediaより引用

久坂は志半ばにして斃れましたが、彼の遺志を継いだ長州藩士たちの歩みは止まりません。
彼らの手によって、明治維新が成し遂げられることになります。

 

久坂の不可解さ

久坂の生涯をたどると、不可解な点がわいてきます。

愚かであったとは、到底思えません。
切れ者であり、怜悧です。

後に西郷隆盛は木戸孝允に対し、こう語ったとされます。
「あたん国ん久坂先生が生きちょられたなら、おいどんらは互いに参議などと威張ってへられんやろう」

西郷や木戸より、才略において上であった。
そう評価しているのです。
多少はリップ・サービスが入っていたとしても、能力のほどが知れるでしょう。

ただ、そこまで賢い久坂が、なぜ攘夷の非を悟らず無謀な砲撃を続けたのか。
なぜ、孝明天皇の意志に反して現実逃避するようなことを続けたのか?

挙げ句、高杉晋作の反対まで押し切って京都に進発し、散ることとなったのか?

その判断が難しいのです。
久坂の目的がいまひとつわかりにくい。

例えば、
勝海舟の目指した国家像はどのようなものでしょうか?】
という問いには、答えが簡単に出ます。
嘉永6年(1853年)に彼が幕府に提出し、阿部正弘が太鼓判を押した案があるからです。

実際に目指した国家像は、実はこの勝あたりのプランが正解で、明治政府の行った政策とほぼ一致します。

一方で、久坂や彼の師である吉田松陰のめざした国家像は、どうしても勝のものと比較すると具体性に乏しく、大言壮語的に思えてしまうのです。

吉田松陰の明言というのは素晴らしく、若者の夢や好奇心、可能性を伸ばすようなものがたくさんあります。
シニカルでひねくれがちな勝よりも、名言集にはふさわしいものです。

「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」
うんうん、その通りだ!
人というのはこうでなくてはいけない!
そう思えてしまいます。

ただ……夢や志を持って立ち上がり、自分の可能性を信じて、たくさん勉強して、素晴らしい国を作るというのはわかったけれども。

『その素晴らしい国を実現するためにはどういう政策が必要なのか? 何をすればよいのか?』
となると、ちょっとこれが掴みにくいのです。

行動となると、さらに難しい点があります。

勝の場合は、「これから海軍を鍛えないと話にならねえ。海軍伝習所を作るぜ」となる。
一方で久坂の場合は、
「わしらの意見を通すために、公卿を動かして勅を出してもらおう」
となってしまう。
具体的な行動の前に、正統性を強化しようとするのです。

幕臣と長州藩士では立場が違う――それはもちろんありますが、本当に国家をよくするためにその行動は必要なのか、イデオロギーを重視し過ぎてはないか、と感じてしまいます。

一般的に、こうした久坂の行動は、尊皇攘夷を掲げた純粋さの発露とされています。

でも、本当にそうでしょうか。
彼の中ではむしろ、師匠であり義兄である吉田松陰の思いが第一で、尊皇も、攘夷も、その実現のための、手段ですらあったように思えるのです。

久坂は尊皇を掲げて、孝明天皇のために尽くし、そのために滅んだという見方もあります。
それはむしろ、久坂が憎んだ松平容保のことではないでしょうか。
久坂の言動は、むしろ孝明天皇の意志に反しています。

尊皇も、攘夷も、倒幕も――それは生前、松陰が掲げた理想でした。
情勢や世間の人々の考えが変わり、天皇の意志まで動いても、松陰未完の遺志は死者であるがゆえに絶対に動きません。
亡霊のようにそこに留まり続けるだけです。

久坂の中で、松陰の思いは北極星のように絶対不動のものでした。
情勢に合わせて身の振り方を変えるよりも、情勢を松陰の遺志に近づけようとする――それが久坂の努力であり、純粋さであったのでしょう。

久坂は必要とあれば、謀略の行使も辞さない男でした。
しかし、その謀略は自らの利益を得るためでも、長州藩を有利に動かすためでもなく、【松陰の遺志を貫徹するため】と考えると様々なことがスンナリ繋がる気がしてなりません。

より純粋であるために、謀略を行使する――。
一見、矛盾したことが、松陰と久坂の関係性では成立してしまうのですね。

 

松陰後継者としての生き方

天涯孤独の久坂にとって、家族のように彼を迎え入れ、義弟にまでなってくれた吉田松陰。
彼を見込み、育て上げてくれた松陰。

教育者としての彼は温かみがあり、熱血漢で、素晴らしい人物であることは言うまでもありません。

しかし、冷静に考えてみますと……。
松陰は、アナーキーな人物であります。

・宮部鼎蔵との東北旅行の際、予定していた出発日を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たずに出発。当時の重罪である脱藩をしてしまう
・金子重之輔とともに、長崎に寄港中のロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗
・金子重之輔とともに、漁民の小舟を盗み、ペリー艦隊の旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せて乗船するも渡航拒否される。下田奉行所に自首、投獄される
・日米修好通商条約締結に激怒、老中・間部詮勝に攘夷実行を迫り、断れば殺害する計画を立てる。この際松陰は、「死を恐れない少年3、4名を松下村塾まで手配して欲しい」とまで考えていたほど
・伏見で藩主・毛利敬親を待ち伏せし、京に入る計画を立てる

確かに彼自身は純朴で、よい人ではあったかもしれません。

しかし、その言動は過激の一言。
彼の本質は革命家であり、そのために国のルールを破ることは何とも思っていなかったのでしょう。

松陰ってそういう人だっけ?と思う方もおられるかもしれません。

大正から現在にかけて、教育現場で教えられる松陰は、無害な熱血教育者像です。
国と正義感を大切にする、品行方正な青年であった――そう教えられているのです。

むろん、それは否定しません。
吉田松陰の熱烈な愛国心は、疑問の余地を挟めないほど素晴らしく、教育者としても極めて優れていたことは間違いありません。

ただ、それだけの人物でもないわけでして……。

久坂の言動に関しては、こうした松陰のアナーキズムまで継承したと考えれば、納得できるかもしれません。

松陰が間部詮勝暗殺計画を持ちかけて来た際、久坂と高杉晋作は断りました。
そのため松陰は久坂にすっかり失望していたほどです。

しかし松陰の死後、前述の通り久坂は、その死を悼み大々的にプロデュースしています。
好意的に見れば、義兄であり恩人である松陰を顕彰したい純粋な気持ちと言えます。

久坂は松陰を祭り上げる過程で、彼の言葉を信じ、酸素のように吸い込み、酒を飲むように酔ったのだとは考えられないでしょうか?

かつて松陰の暴走を諫めていた久坂が、師のように暴走し、過激な行動に出てるようになっているのです。
かつてのライバルである高杉が「大馬鹿者」と呆れるほど、先鋭化していったのです。
松陰の思想と一体化するあまり、そのアナーキーさまで取り入れてしまったかのように思えます。

吉田松陰にせよ、久坂玄瑞にせよ、敬愛すべき点はたくさんあります。

しかし、敬愛と盲信は、別物でしょう。

明治維新150周年という節目を迎えている今年、彼らの反省点を今後に生かしても、未来への財産となるはずです。
久坂や松陰が抱いていた、自分が正しいものに突き進むためには、手段すら選ばなくてよいという傾向は、反面教師とすべきでしょう。

「ここで意見を曲げたら、このために犠牲になった先人が報われない!」
そんな動機で失敗へと突き進んで、振り返らず前進するような行動も、慎むべきでしょう。

先人を知り、その見習うべき点と欠点を客観的に判断し、良いところを吸収すること。
それが私たちに求められていることではないでしょうか。

文:小檜山青

【参考文献】
『吉田松陰 久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」』一坂太郎(→amazon link
国史大辞典
やまぐちISHIN

 



-幕末・維新
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.