高杉晋作

高杉晋作/wikipediaより引用

幕末・維新

高杉晋作が27歳で夭逝「立てば雷電、動けば台風」の麒麟児は生き急ぐ

慶応三年(1867年)4月14日、高杉晋作が亡くなりました。

27歳で亡くなったので世間一般的には”夭折”ということになるでしょう。

しかし彼のそこまでの言動を見てみると、何だかこの言葉の持つ儚さや繊細さが似合わないような気もします。

 


23歳までは順当な生活を送っていた高杉晋作

高杉晋作は天保十年(1839年)、長州藩(今の山口県)の藩士の上に生まれました。

ざっと経歴を挙げてみましょう。

・20歳のとき痘瘡を患い、その後は剣道に打ち込んで頑健になったようで無事成長

・18歳で吉田松陰の私塾・松下村塾に入門し、翌年はさらに江戸の昌平坂学問所などに学んで文武両道の人となりました

・23歳で国元へ帰り、周防・長州で一番の美人と呼ばれた女性を妻に迎え、ほぼ順調な生活をしています

ここまでだったら普通の藩士なのです。ここまでは……。

 


なぜか結婚直後の24歳からはじけ

尋常じゃなくなってくるのが結婚の翌年、24歳のときです。

黒船によって半ば強制的に開国させられていた日本は、薄々「軍を西洋風にしないとダメでは?」ということに気付き始めていました。

しかし、約250年続いた徳川の伝統から、いきなり脱するほどの柔軟な思考を持った人物はそう多くはなかったので、藩によって西欧化の手立てはバラバラ。

晋作のいた長州藩では積極的とはいいがたい方向でしたが、彼は縁あって幕府から清(中国)へ向かう使節団に加わることになり、上海へ渡航します。

そこでアヘン戦争直後、かつアロー戦争太平天国の乱真っ最中の惨状を目にし、ある決意をしました。

「イギリス、ブッコロ!」※超訳

帰るなり彼は「薩摩は生麦事件でイギリス人を(ピー)したっていうのに、ウチの藩は何もしてないなんて情けない。上がやらないなら俺らがやっちゃるわ!」という無茶苦茶な理由を語り始めました。

現代人の感覚からすると「いやいやいや外国人ブッコロしてどうすんのよ。国内の改革が先だろ」と言いたくなりますよね。

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しかし、晋作の周辺には尊皇攘夷思想の人物が多かったため、「よっしゃ俺も!」「私も!」と同志が集まります。

そんなメンバーの一人がうっかり外部の人間に話してしまったところ、伝え聞いた長州藩主の息子さんにバレて「ンなもんうまく行くわけねえだろうが! お前らしばらく大人しくしてろ」と謹慎命令を食らってしまいました。

しかし晋作は諦めず、品川に建設中だった英国公使館を焼き討ちするという暴挙を働きます。

この時代の謹慎って外出禁止令とほぼ同義なんですが、見張りとかつけてなかったんでしょうかね。

当然これは再び長州藩のお偉いさんにバレ、「あいつ江戸にいさせるとロクなことにならん。戻ってこさせよう」ということで幕府に犯人がバレる前に晋作を国元へ呼び返しました。

晋作は帰ってはきたものの「好きにさせてもらえないなら十年ほどお暇をいただきますね★」(超訳)と言い出し、恩師である松蔭の生まれ故郷に引きこもってしまいました。

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とにかく行動するときとしないときの差が極端すぎます。

 


外国船ぶっぱなせぇ!で大敗北

しかし十年経つ前に、長州藩を激震が襲いました……というか、長州藩自らが起こしました。

関門海峡を通行しようとした外国船へ向かって一発ぶっ放し、アメリカ・フランス相手に下関戦争をおっぱじめてしまったのです。

技術の追いついていなかった長州はケンカを売ったのに緒戦でボロ負け。

散々な目に遭ったにも拘らず「ウチに人材がいないから負けたんだ!アイツなら腕が立つからきっと勝てる!」と思い込んだらしく、トラブルメーカーどころかトラブルと親友状態の高杉晋作をアテにします。

命を受けた晋作は素直に引きこもりをやめて下関の防衛にあたりました。

そして「藩士だけじゃロクな奴がいない。やる気のある奴を集めて部隊を作ろう」と考え、奇兵隊を結成しますが、たぶん目の付け所はそこじゃないんでは……。

しかも藩の許可を取っていなかったので正規の部隊と揉め事が起きてしまい、正規部隊に死者が出るという最悪の事態に陥ります。

当然、防衛の任を解かれ、さらに脱藩という当時死刑になってもおかしくないことをやってしまったため、牢屋に放り込まれてしまいます。

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