大政奉還

『大政奉還図』作:邨田丹陵(むらたたんりょう)/wikipediaより引用

幕末・維新

なぜ大政奉還が実施されても戊辰戦争は始まった?激突する西郷と慶喜の思惑

2024/10/13

なぜ、江戸幕府が引いたのに、西郷隆盛たちは攻め続けたのか?

幕末維新におけるクライマックスが【大政奉還】であり、その後に続く【戊辰戦争】でしょう。

慶応3年(1867年)10月14日に慶喜が明治天皇へ奏上して、翌日に勅許がくだされ、幕府から朝廷への政権譲渡が完了。

となると、もはや江戸幕府も同じ立場であり、薩長と揉める必要はない――にもかかわらず両者の争いは激化し、ついには戊辰戦争へ発展してしまいます。

岩倉具視や薩摩藩の首脳部では、国土の疲弊する内戦を回避する意向でした。

しかし、現場の西郷隆盛らが戦いを強行したともされ、何やらややこしいことになっています。

一体なぜ?

本稿で、大政奉還~戊辰戦争の流れを振り返ってみたいと思います。

 


将軍家から朝廷へ政権お返し

ズバリ、大政奉還とは?

言葉の意味としては、十五代将軍・徳川慶喜が「朝廷へ政権をお返しします」という書面を提出し、翌日、明治天皇からの許可が降りたことを指します。

実質的には国王同様の権力を持っていた征夷大将軍。

実は、朝廷から将軍に任じられなければその座にはつけません。

幕末になると、開国に関する騒動をはじめとした政治的混乱がアチコチで起き、朝廷では「もう幕府いらなくね?」と考える人も増えていました。

親幕府(親会津)派だった孝明天皇が亡くなったことも大きかったのでしょう。

こうした流れが大きなうねりになっていったのですね。

※以下は孝明天皇の関連記事となります

孝明天皇
孝明天皇の生涯を知れば幕末がわかる|会津に託した宸翰と御製とは?

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「このままではクビ(物理)にされてしまう!」と危機感を抱いた徳川慶喜が、「そうなる前に討伐される名目をなくそう」としたのが大政奉還である……という説明もされがちですよね。

しかし政権を返還して命乞いをするというワケではなく、幕府からも遣欧使節(ヨーロッパへの視察団)を出しており、立憲君主制や議会などの情報は入ってきておりました。

慶喜はこれを日本に導入し、天皇の下に武家による議会を作り、自分もその中心に……と考えていたようです。

260年にも渡って政治を動かしてきたのですから、徳川家がいなければ成り立たない。

そんな思いから「以前よりは権力の弱まった幕府が、天皇の下にくっつく」ぐらいのイメージだったでしょう。

徳川慶喜/wikipediaより引用

 


龍馬や土佐藩なども動いてた!?

倒幕派の中でも、土佐藩などが慶喜と同じような意見でした。

坂本龍馬の意見をさらに発展させたものだとも言われますね。

坂本龍馬/wikipediaより引用

これを元に前土佐藩主・山内容堂が慶喜に大政奉還を勧める建白書を書き、さらにその説明書きとして土佐藩のお偉いさんが改革意見書をつけて幕府に提出。

広島藩主・浅野長訓からも似たような趣旨の手紙が送られています。

慶喜は京都にいた10万石以上の藩の重臣を二条城に集め、この方針に対する意見を募りました。

しかし、ほとんどの者はハッキリした意見を出さずに様子見していたといいます。

当時はどっちがどう転ぶかわかりませんから「どちらが有利か確信できるまで、もうちょっと待とう」というわけです。

この後、広島藩や土佐藩はもちろん、薩摩藩や岡山藩、宇和島藩などの重臣たちが慶喜に改めて大政奉還を促しました。

有名どころでは、薩摩の小松帯刀などがこの中にいます。

 

幕府から謙虚な意見 & 朝廷から穏便な返信

全ての藩から意見を聞くことはできなかったものの、再三勧められて、慶喜も政権を返すことを決めました。

このときの文章は極めて謙虚なもの。おおざっぱにまとめるとこんな感じです。

「先祖家康の代から一方ならぬご寵愛を賜り、二百年以上もの間当家が受け継いで参りました。

昨今のような状況になってしまったのは、ひとえに私の不徳の致すところであり、慚愧に堪えません。

この上は従来の慣習を改め、朝廷に権力をお返しし、皆心を一つに合わせ、この国をお守りしたいと考えております。

そうすれば、海外のどんな国とも渡り合っていけるでしょう。

これが、私が国のためにできることだと心得ております。

また、諸侯から今後についての意見があれば受け入れ、改めてご連絡申し上げます」

一方、朝廷からの返事は?

「先祖代々ご苦労だった。

昨今の状況をみるに、そなたの建白書の意見はもっともである。

皆心を一つにし、この国と陛下をお守りしていこうではないか」

上記の内容からして、この時点では武力行為による倒幕はされないように思われました。

しかし……。

 


【王政復古の大号令】徳川家は要らん

形式的には幕府が終わり、政権を担うことになった朝廷。

新政府には、まだ実務機関がなかったので、しばらくは慶喜を含めた幕府の中心人物が引き続き政治を行わなければなりません。

慶喜はこの状態を保ち、武家議会の発足に持っていこうと考えていたようです。

しかし、それは徳川家や佐幕派を追い払いたい倒幕強硬派にとっては非常に邪魔なことでした。

彼らが作りたいのは「新しい国家」であり、旧体制の象徴ともいえる幕府の要人が政権に残ってしまうと、悪影響になると考えていたわけです。

というのは表向きの理由ですね。

要は、薩長土肥側と幕府側の権力争いでしょう。

特に西郷隆盛あたりの強硬派は、何が何でも徳川家を追い払おうと画策しました。

そのためには武力行使も辞さず――なんて言うと、内戦は避けられませんので、こうした西郷らの方針には、他ならぬ薩摩藩や公家の岩倉具視なども賛成しておりません。

以下の記事にその詳細は譲りまして、

武力倒幕
なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めたのか?岩倉や薩摩藩は“下策”に反対

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岩倉具視
幕末の下級貴族・岩倉具視|なぜ明治政府の主要メンバーになれたのか

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そこで出されたのが【王政復古の大号令】です。

「これからは天皇中心の政府を作るんだから、徳川家はノーセンキュー!」(超訳)と表明し、慶喜に官位と領地を返すよう求めたのです。

もちろん慶喜は政治に関わり続けたいのでこれを拒否。

実際、それまで政治を運営していた幕府の人間がいなくなるのも困るという問題もあります。

とはいえ慶喜も、朝敵(朝廷=天皇の敵)にもなりたくはないので、京都を離れて大坂城へ移りました。

二条城は京都のど真ん中ですが、大坂城なら籠城戦もできますし、経済の中心地でもあります。

しかし、慶喜の考えは通りませんでした。

夕焼けの二条城

 

鳥羽・伏見で開戦!

慶喜の行動を是としない倒幕派は、解決(物理)のための工作を始めます。

例えば西郷隆盛は、自身の息のかかった志士たちに命じて江戸で暴れ回らせました。

その報復として江戸の薩摩藩邸が襲撃されるのですが、言わば「肉を斬らせて骨を断つ」というやつでしょう。

現代から見てもあまり綺麗な方法ではありません。

ハッキリ言えばテロ行為。

結果的に新政府軍が政権を取ったため今もあまりクローズアップされませんね。

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むろん、当時を生きていた関係者、特に幕府サイドにとっては、怒髪天を衝く勢いでブチ切れる理由になりました。

大坂城で一連のことを聞いた佐幕派は、慶喜に新政府との戦争を持ちかけます。

慶喜も家臣たちを奮い立て、ついに武力衝突が発生!

これが【戊辰戦争】の始まりである【鳥羽・伏見の戦い】でした。

 

開陽丸で江戸へ戻らなければなぁ

【鳥羽・伏見の戦い】では、新政府軍が「天皇の軍」であるという「錦の御旗(錦旗)」を掲げ、見た目上、幕府は「天皇の敵=朝敵」になってしまいます。

このとき用いられた「錦の御旗」は即席のものだったとされますが、戦争になってしまえば関係ありません。

とにかく母の吉子女王(有栖川宮織仁親王の娘)から皇族の血を受け継いでいた慶喜としては、朝敵になる事態だけは避けたかったとは言われています。

大河ドラマ『篤姫』では、慶喜役の平岳大さんがとても良い演技をしていましたね。

すると、それまで朝廷でも「慶喜の言う通り、諸侯による会議を作る形でもいいのではないか」という意見が強まっていたのですが、鳥羽・伏見の戦いによって武力による倒幕派が主流になってしまったのです。

元々、倒幕派は西国大名が多かったため、西日本では武家や商人が新政府軍に協力する姿勢を見せ、新政府軍の規模は一気に拡大。

ここで慶喜は最大のミスを犯してしまいます。

多くの兵を置き去りにして、わずかな近臣とともに開陽丸という船で江戸へ逃げ帰ってしまったのです。

しかも愛妾を連れての逃亡であり、江戸についたときは顔面蒼白で、勝海舟に自らの助命嘆願に必死だったと言いますから将軍としてはどうしようもない。

もしもここで違う動きをしていたらその後の展開は全く変わっていたでしょう。

ちなみに、佐幕派の代表格である松平容保も、慶喜に半ば無理矢理に同行させられていました。

松平容保/wikipediaより引用

が、その後、養子に当主の座を譲ったり、藩士に詫びたために恨みを買わずに済んでいます。

ほんのちょっとしたことで、慶喜と容保は全く違う評価になったわけです。

 

甲州勝沼の戦いに続いて上野、市川、船橋も

慶喜は上野・寛永寺で謹慎しました。

すると朝廷からは慶喜追討の命令が出されてしまいます。

これにより、有栖川宮熾仁(たるひと)親王が新政府軍の総大将として東へ向かい、各地の旧幕府軍と戦うことになっていきます。

vs新撰組の【甲州勝沼の戦い】などが有名ですね。

そしてついに新政府軍が江戸まで迫ってきました。

江戸城では慶喜から後始末を命じられた勝海舟や山岡鉄舟、薩摩出身の篤姫、皇室出身の和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)などが新政府軍との折衝にあたりました。

これに西郷隆盛が応じたことにより、江戸城は血を流すことなく新政府軍へ明け渡されます。

西郷隆盛と勝海舟の会談を描いた『江戸開城談判』作:結城素明/wikipediaより引用

旧幕府軍のうちいくつかの小隊があくまで新政府軍に抵抗しました。

【上野戦争】や【市川・船橋戦争】などです。

ちなみに、上野戦争が起きた頃、慶喜は水戸で謹慎していました。

一旦は家臣たちに戦争を仕掛けさせておきながら、自分だけは「常に後方にいる・前に出てきていない」あたりが、彼の評判を大きく落としていたのでしょう。

 

御誓文と掲示

一方そのころ京都では【五箇条の御誓文】が出され、改めて新政府のモットーが示されました。

さらに、この内容をもう少し庶民向けにした【五榜の掲示】も出されています。

「榜」は立て札のことです。日本では古代から、庶民向けの広報は立て札で示されていたので、その形を踏襲したものでした。

現代でも町内会のお知らせなどが道端の掲示板に貼られることがありますが、そんな感じです。ある意味、歴史的な方法なんですね。

この二つも見分けがつきにくい用語ですが、特徴だけまとめると

【先】五箇条の御誓文

→明治天皇による天への誓約 語尾が「~ベシ」(一条だけ例外あり)

【後】五榜の掲示

→明治政府から庶民へのお知らせ 語尾が「~事」

こうなります。

「戦線を追いかけるような形で、明治新政府は新しい世の中の下準備を進めていた」といえるでしょう。

五箇条の御誓文・原本/wikipediaより引用

 

旧幕府軍は北へ北へ そして箱館戦争で終焉を迎える

東日本では戦争が続いていました。

東北では「会津藩の朝敵認定を何とか取り消してもらおう」という意見が強まり、仙台藩を盟主とする【奥羽越列藩同盟】ができます。

しかし、山を超えた先にある越後では、河井継之助の活躍する北越戦争が行われており、その余波で東北でも戦闘が始まってしまいます。

奥羽越列藩同盟vs明治新政府軍の戦いは各所に及び、まとめて東北戦争と呼んでいます。

これまた有名な会津戦争や白虎隊の悲劇などもここに含まれるものです。

東北戦争もやはり新政府軍の勝利に終わりましが、同盟側の敗残兵に江戸城の明け渡し等を済ませた榎本武揚らが合流し、箱館(函館)で最後の抵抗を試みます。

これが箱館戦争です。

こちらは新撰組副長・土方歳三の最期の戦いとしても有名ですね。

土方歳三/wikipediaより引用

過去に当コーナーで取り上げた中では、幕府に協力していたフランス軍人ジュール・ブリュネらも参加しています。

榎本らが降伏したことで、戊辰戦争はようやく終わりました。

関ヶ原以来となる日本全国での大戦だった割に、一年半で全てが終わったのは奇跡的かもしれません。

他の国でこの手の戦争が起こると、数十年かかることも珍しくないですからね……近いのは南北戦争(だいたい四年)くらいでしょうか。

まぁ、戦場となってしまったエリアの住民は酷い目に遭わされているので、何にせよ武力倒幕というのが良かったのか疑問には残るところです。


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【参考】
国史大辞典「大政奉還」等
大政奉還/wikipedia
五箇条の御誓文/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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