Fate/Grand Order セイバー/沖田総司(→amazon link

幕末・維新

沖田総司は新選組の最強剣士か? 享年27で夭折した一番隊組長の生涯

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
沖田総司
をクリックお願いします。

 

沖田総司美剣士伝説の真偽

最近は、斎藤一らに押され気味の沖田の人気。

そうは言っても新選組では屈指でありましょう。

どこか純粋で、はかなげで、美男子で。

肺結核を患っていて、悲恋を味わう。

愛刀は菊一文字とされる(※史料不足で特定できません)。

土方歳三の場合、美形だったという同時代の証言もかなりありますし、写真もイケメンです。

斎藤一も、写真が美形だったことで話題になりました。

では……沖田総司はどうでしょう?

一応、子孫をモデルとした肖像画はあります。ただ、こういう血縁関係者から再現した肖像画があてにならないことは、斎藤一でも証明済です。

写真が発見されたとされたことも、これまで何度かあります。

土方の遺品から出てきたとか、そういう逸話も盛られましたが、これも背景の事情は明らかになってきています。

◆幕末には無名な人物の写真も結構撮られている

◆そんな写真とドラマで演じた俳優が似ていると信憑性が増す

こういう展開ですね。

斎藤一のように子孫が持ち出したようなものでなければ、信用できないと考えた方が良さそうです。

子母沢寛(しもざわ かん)の『新選組異聞』は確かに貴重でありますが、話が誇張気味なので注意が必要です。「頬骨が高い、口が大きい」という描写は、作者が付け加えたものとされております。

こうした諸事情を勘案しますと、やはり頼りとなるのは目撃証言でしょう。

・色が浅黒い

・目が細い

・平たい顔(ヒラメ顔とされることもありますが、これは誇張か、聞き違いがあるようです)

・五尺五寸(167センチ)の人物と身長は同じくらい

土方や近藤のように、特に目立つ点がないということでしょう。

美男でもない、その逆でもない、普通の顔ということです。

京都で女性との恋愛があったという証言や、女性縁者の墓もあります。恋をしたことはあったようです。

ただ、近藤勇の嫁取り話や、土方歳三のような若い頃からのモテモテ伝説はありません。

土方は「ラブレターもらいすぎぃ!」と調子に乗った手紙を故郷まで送り、そのことで姉・ノブに叱られ反論できなかったそうです。

沖田には、そういう恥ずかしいやらかしはないようです。恋愛に関しては、ごく普通の青年ということでしょう。

美形であるというイメージが誇張されたせいか、ギャップ狙いで「醜かった」という話も誇張されます。

美醜の噂は置いておき、ごく普通であるということでよいのではないでしょうか。

むしろ特異性があったのは、身体能力でしょう。

 

多摩から上洛し、新選組結成

気の荒いところもある。近藤や土方と親しい。

そんな白河藩士の青年であった沖田総司にも、転換点が訪れます。

文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際し、将軍警護の名目で浪士を募集しました。

徳川家茂(徳川慶福)勝にも認められた文武の才~徳川14代将軍の実力とは

続きを見る

これを契機に新選組が結成されますが、まだ若く、意思決定にそこまで深く関わっていない沖田はあくまで脇役です。

近藤勇は人情味があり、人を束ねる力量がありました。

そのため試衛館には剣士たちが集まり、新選組を組織できたのだと言えます。人の心をつかむカリスマ性と人徳がありました。

土方歳三は、家伝の石田散薬を作るための材料を刈り取る時ですら、指揮能力を発揮しています。

商人だった頃から、人を惹きつける魅力やセンスがありました。道場での剣術はさほど強くないようで、他流試合をこなし、自分なりの戦術を考えていました。戦いや集団を指揮するマネジメントスキルがあった。

つまり近藤と土方の二人は、組織で花開く存在だったのですね。

一方の沖田は?

当時、まだ22歳前後。性格的にも、近藤や土方のような組織マネジメントは発揮されていなかったと推測できます。

あくまで近藤や土方の命令を受けて動く存在でした。

特筆すべき点があるとすれば、この上洛により「白河藩からの脱藩」という処理が行われたことです。

沖田家は義兄・林太郎が継ぐことが確定的となった。嫡男であった彼が不在となることで、姉・ミツの夫が後継者となったわけです。

未婚であり、子もいない沖田総司なのに、沖田家に子孫がいる理由は、ここに起因します。

沖田総司にとっても、この上洛が人生の転機であったことは確かです。

 

壬生浪士組から新選組へ

前述の通り、沖田はあくまで一隊士であり、新選組そのものの動向を追えば彼の生涯も理解できます。

新選組は、結成当時から特徴がありました。

◆経済的には苦しく、組織も不安定

→京都守護職になった会津藩の御預かりとなったものの、見切り発車状態であり、金策をし、住まいも、道場も、工夫しながらなんとかしていく状態

京都市内に先祖代々住む人には、新選組嫌いが多いとされています。

強引な金策を商人相手にし、時に暴力沙汰に及んだ、そんな先祖の嫌な記憶があるのです。

◆脱走者、ルール違反者粛清、内部分裂が多い

→ただし、新選組特有のものであるとは言い切れず

幕末の諸隊や組織で同様の傾向があります。内部分裂した結果、凄惨な殺傷に発展したことはしばしばありました。

例えば有名な薩摩藩の【精忠組】、長州藩の【松下村塾】、土佐藩の【勤皇党】、水戸藩の【天狗党】等においてもそうした傾向が確認できます。

精忠組(誠忠組)とは? 西郷・大久保らの主要メンバーが薩摩を動かす

続きを見る

にもかかわらず内部分裂が「新選組特有である」と誤解されるのは、権力勾配やフィクションの影響でしょう。

政府を築けば、不都合な記録を削除し、個人の責任にして責任回避ができる。そのため幕府サイドの新選組は、太平洋戦争以前のフィクションにおいて悪役が定番でした。

残酷な異常者集団であるというイメージが、流布していったのです。

そこはもっと冷静に考える必要がありましょう。

◆思想的には、実はあまり特徴がない

→新選組は攘夷思想を掲げ、西洋の技術や学問を否定していました

これは彼らが無知蒙昧ということでもなく、新政府をのちに結成する側も、幕府を守ろうとした側も、文久年間初期であればそこまで差はありません。

当初から開明派だった勝海舟福沢諭吉ら幕臣、薩摩藩の五代友厚らは、非常に例外的な人物です。

勝海舟77年の生涯まとめ【年表付】いつドコで生まれ維新後は何をしていた?

続きを見る

福沢諭吉67年の生涯をスッキリ解説!強烈な武士の誇りを持ち続けた偉人の素顔

続きを見る

ただし、新選組の思想面で転換点はありました。

芹沢鴨とその一派の暗殺です。

徳川斉昭が率いる水戸藩は、当時、屈指の尊王攘夷派でした。

「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し

続きを見る

将軍継嗣問題で失脚したものの、思想的には煮えたぎっております。そんな水戸藩出身の芹沢鴨は、バリバリの過激主張があったとしても、不思議はありません。

芹沢の暗殺には、金銭面や愛妾・お梅のことがやたらとクローズアップされがちではあります。ただ、これにも注意は必要であるとは思うのです。

新選組は、フィクションでともかく盛り上がる。となると、お色気要素として芹沢と女の話が大きく取り上げられてもおかしくはありません。

芹沢の暗殺に巻き込まれて、同衾していた女性が殺害されていることもあるのでしょう。無実の女性を巻きこんだ暗殺となると、後味は悪いものです。

こういう時、死んでも仕方ない悪女であったと色付けすれば、その後味の悪さは軽減される。そういう気持ちはどうしても考えてしまいます。

文久3年(1863年)の芹沢鴨暗殺事件は、新選組の流れを決定づける重要なものではあります。芹沢本人の人柄のようなことは横に置き、重要とされる点をまとめておきますと……。

◆芹沢鴨一派は水戸藩出身

→思想的な背景、出身地が近藤らとは異なる

◆「芹沢暗殺実行犯は長州藩の間者である」という噂を流していた

→近藤一派の責任を逃し、かつ徹底粛清をはかる狙いがあった

◆実行犯に沖田総司は含まれている

永倉新八は暗殺後やっと知り驚いていたと証言しており、近藤からの信頼度の違いがわかる

幾度かの血腥い粛清を経て、文久3年末までには、芹沢一派が排除され、近藤主体の組織となってゆきます。

新選組の誕生でした。
※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-幕末・維新
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.