Fate/Grand Order セイバー/沖田総司(→amazon link

幕末・維新

沖田総司は新選組の最強剣士か? 享年27で夭折した一番隊組長の生涯

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世直しの気風があふれる幕末を生きる

その一方で近藤らには不満が募ってきます。

粛清を終えて組織が整ったものの、名目であった将軍護衛という任務はもはやない。

となれば、当初の目的である攘夷をしたい。しかし、そんなことをされては幕府にとっては頭痛の種が増えるだです。

当時の攘夷は、ブームとしての熱気がありました。

外国人なり、外国に思想を学んだ人を殺害して、一体何が思想なのか、そんなブームがあってよいものかと言いたくなるかもしれません。

テロであり、ヘイトクライムです。

尊王攘夷を掲げた側が明治維新を成し遂げたこともあり、犯罪としての責任が曖昧にされてしまった感はありますが、そこはごまかせません。

勝海舟福沢諭吉五代友厚のような人物は、愚かであると呆れ果てておりました。

攘夷を実行に移した人物も多数おり、そのせいで幕府は莫大な賠償金を請求され年貢が重くなりました。さらには内政干渉の口実まで与えたのですから、まさに百害あって一利なしです。

そんな折、新選組が攘夷をやらかしたら幕府としては困る……そこで、市中見回り、警護という役割を任されます。

けれども、近藤らは不満ではありました。

これでは町奉行同心と同じではないか!

そんな警備隊を任されるって、どうしたものだろう? もう解散しようか? そう悩んだ時期もありました。

しかし、近藤らは慰労を受け入れ、任務を続行することとなります。

新選組の色合いを考える上で、毛色の変わった事件があります。

元治元年(1864年)、大坂西町奉行与力・内山彦次郎が暗殺されております。

内山は、力士乱闘事件の際に新選組を捜査しており、これに新選組が怒り復讐のために殺されたという説がかつては定着していました。

しかし、これには検討が必要なようです。

そもそも犯行は新選組だったのか?

動機は何か?

ここがハッキリしないために、事件がよくわからないのです。

◆犯人は誰か?

→候補として新選組が挙げられることは確かで、その証言もあることはある

◆動機は?

→ここも問題で、内山本人が悪徳奉行であったという説もあれば、新選組を厳しく問い詰めた正義感の強い人物説も

悪徳奉行である内山を、新選組なり誰か犯人が、粛清世直しの気持ちを込めて殺したのか?

それともただの逆恨みか?

断言できません。

ただ、ハッキリと言えることがあるとすれば、当時は、極めて暴力的解決手段と世直しの気風があり、そして怒りに溢れていたことでしょう。

思想や立ち位置の違いはあれ、世直しとして暴力による解決できる――そういう気配が漲っていたのです。

新選組は暴力組織と呼ばれます。そこは否定しません。

新選組と敵対した長州藩士はじめ、尊王攘夷派も暴力的でした。これも、否定できないことです。

特定の組織や個人だけを極めて暴力的で例外的であったと特別視すると、幕末という時代はわかりにくくなりますので、注意が必要です。

新選組とは暴力的な集団ではありましたが、彼らを必要とするほどの治安悪化と、攘夷というテロ行為横行も忘れてはなりません。

攘夷志士と新選組は、いわば共存関係でした。

 

池田屋での沖田は?

モチベーションが落ち込んでしまうほどであった新選組ですが、幕末の政局において存在感をます事件が発生します。

池田屋事件】です。

新選組といえば同事件ばかり取り上げられる傾向があり、本質が見えにくくなります。

池田屋事件は、政治的な抗争である【八月十八日の政変】と【禁門の変】の間にあったことが重要でしょう。

禁門の変(蛤御門の変)御所に発砲した長州と天皇の意を汲んだ会津の因縁が

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新選組の強引な拷問による冤罪取り締まりである――そんな解釈もされてきました。

孝明天皇誘拐計画の真偽はさておき、政変からの返り咲きを狙い、何らかの事件計画があったのではないかということは、指摘されるところです。

孝明天皇を知れば幕末のゴタゴタが超わかる! 謎に包まれがちなその御意志

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大河ドラマでもおなじみのこの事件、2013年『八重の桜』が最新鋭かつ妥当な描写だったと思われます。

新選組を預かる会津藩としては、彼らの活躍は支持せねばならない。

とはいえ、話し合いを放棄して凄惨な暴力で解決することは、事態の悪化を招くことではなかったか?

ヒロインの兄であり先進的な思想を持つ山本覚馬の愕然とした反応。

そんな覚馬を甘いと軽蔑的に見る斎藤一

そうした表現で、多層的な要素を示していました。

本稿で取り上げる沖田総司の見せ場となったのが、この凄惨な事件です。フィクションでおなじみの展開がそこにはあります。

拷問で五寸釘を相手の足の裏に打ち込む土方。

祇園祭の笛の音が響く中、池田屋へ殺到する新選組隊士。

映像作品では浅黄色の羽織着用がお約束の新選組は、史実において黒装束だったとされております。

彼らが池田屋に出向き、

「御用改である!」

と、近藤が一喝すると、少人数でありながら隊士たちが殺到します。

かくして始まった、血まみれの激闘!

沖田総司は、結核のため喀血し倒れ込んでしまう!

実は、この沖田の昏倒は史実とみなされております。

事件後、真っ青な顔色をしながら、土方と隣あい、列の先頭に立ってフラフラと屯所へ戻っていった――そんな沖田の目撃証言もあります。

ただ、喀血というのは永倉新八の事実誤認でしょう。

当時はまだ発病前か、あるいは発病していても、倒れるほど悪化していなかったとみなす方が妥当です。

鎖帷子、鉢金を装備し、真夏の狭い室内で激しい斬り合いをすれば、熱中症になってもおかしくはありません。

沖田はその激しい性格ゆえ全力で戦い抜き、結果、倒れてしまったのではないかと目されます。

 

隊士たちの不和と戸惑い

【池田屋事件】と【禁門の変】での出動は、新選組の存在感を増大させます。

ファンとしては熱くなる場面ですし、新選組隊士もまさしく誇りある戦果を遂げたと思いたい局面でもありましょう。

ただ、敵対者からすれば決定的に印象が悪化した契機でもあります。

2004年の大河ドラマが『新選組!』だったとき、

「あんなテロリストを美化してどうするのか」

と、国会で取り上げられたほどでした。

隊士の中でも、もっと存在感を増したい功名心と、これでよいのかという疑問が湧いてくる局面です。

近藤勇は、周平という養子を取ろうとします。この周平は谷家の出身で、谷三十郎の弟にあたります。老中・板倉勝静(備中松山藩・第7代藩主)のご落胤(私生児)を谷家が引き取って育てていたという説も。

真偽はさておき、谷家と板倉家には何らかの関係があったようです。

近藤としては、養子縁組により、有力政治家である板倉家と縁故を結びたい気持ちはあったわけです。

土方との対比もあってか。今度はフィクションにおいて愚鈍で俗物的である面を強調されることもあります。しかし、そう単純な人物でもないと考えた方がよいのではないでしょうか。

この周平の嫁とするための養女・コウを、近藤は迎えていました。

この養女が沖田に惚れ、周平との結婚を拒んだという逸話もありますが、詳細と真偽のほどは諸説あるとしておきましょう。

近藤は自分がトップに立つ組織をここまで育て上げ、野心が芽生えていたわけです。のちに永倉新八や原田左之助が不満を募らせた一因は、このあたりにあるのでしょう。

一方で、新選組に対して疑念を募らせる隊士も出てきます。

新選組の体質があまりに酷かったという解釈もできます。確かに厳しい規則はありましたが、幕末という事情を鑑みる必要ありそうです。

この不安定な世の中を憂い、変えていきたい!

そのためにはどうすべきか?

天皇の意思を尊重すべきか?

あくまで武士は幕府を守るために動くべきなのか?

攘夷思想を貫くべきなのか?

洋式を取り入れるべきなのか?

藩や立場は違えど、幕末は常に選択をつきつけられておりました。

新選組のような下級武士だけの話ではなく、典型例としては、孝明天皇の信任と、藩祖・保科正之の教えに引き裂かれた会津藩主・松平容保もおります。

新選組がただの浪士、警備集団だけでなくなり、政治性を帯びてゆくことで、この疑念が強まってゆく人物も出てきます。

それが山南敬助(やまなみけいすけ)です。

フィクションでも人気が高く、彼が自害したことは確かです。ただし、そこに至るまでの動機に諸説があり、断定が難しい。

◆長期病気療養をしていた

◆結果、隊の幹部でありながら活躍ができないことに、引目を感じていた

◆文を嗜む教養人であり、新選組の変わりゆく体質にストレスを溜めていたようだ

◆土方と相性が悪く、多摩時代から「あいつはろくなもんじゃねえ」と、土方は山南を嫌っていた

◆暴力の連鎖、屯所移転、勤皇思想との兼ね合い等……

山南は元治2年(慶応元年)、自死を選びました。

しかし、不明瞭な点も多いのです。

・脱走したのか? 証言が複数ありハッキリしない

・脱走し、大津で追いつかれたと言うが、事前に病気療養のために大津にいたことも考えられなくもない

・別れを惜しんだ女性とされる明里は、創作説が有力

山南敬助は沖田より序列がひとつ上であり、同時期に病気療養していたという共通点があることは確かです。

ただ、沖田本人と山南敬助の関係性は、誇張があると考えた方がよいかもしれません。

ここで、山南の死と時期がそう遠くないある日の沖田総司の姿を証言からたどってみましょう。

沖田総司が相変わらずのさのさして、無駄口をきいて歩いていました。父(源之丞)の顔を見ると、「八木さん、(近藤)先生がどうも顔から火が出るッていっていましたぜ」と、愉快そうに笑っていました。(『壬生ばなし』八木為三郎の証言)

沖田は冗談が好きで明るい性格の人物として、記憶されていました。子ども好きで性格が明るかったという証言もあるのです。

口調はべらんめえ、江戸っ子らしいものであったとうかがえます。白河藩の「べえべえ」という口調は、あまり好きでなかったそうです。

近藤の野心や気の大きさの現れとして、女性を休息所に囲ったこともあげられます。

かつてはストイックに不美人な妻・ツネを敢えて選んだ近藤ですが、そうした姿勢は変わっていったようです。

沖田がこうした女性宅で療養したこともあったようですが、こうした関係性を「上司の愛人宅」と現代的に考えることはやめておきましょう。

幕末当時の人間関係は、現代とは異なるものです。

前述の通り、沖田にも縁のある女性がいたようではありますが、近藤ほどはっきりとした記録はないようです。

証言から見えてくる沖田は、竹を割ったように明るく、めっぽう強く、カラリとした性格の青年像です。
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