Q. 幕末に西郷隆盛を説得した、名前に「舟」のつく幕臣は誰でしょう?
A. 勝海舟!
惜しいッ!
半分当たりで半分不正解。
より正確な答えとしては
【勝海舟と山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)】
になります。
明治元年(1868年)3月9日に駿府城で西郷と面会し、勝海舟から託されていた江戸城無血開城の事前交渉をまとめました。
歴史好きの間では【幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)】として知られていますね。
【幕末の三舟】
・勝海舟
・山岡鉄舟
・高橋泥舟(たかはし でいしゅう)
その生き様はまるで「武士の鏡」のようであり、はたまた剛毅で真摯な心の持ちようは、現代人の魂をも熱く揺さぶる、特別な存在でした。
山岡鉄舟の生涯を振り返ってみましょう。
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神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流
山岡鉄舟(本稿はこの名で統一)は天保7年(1836年)、徳川家康以来の旗本・小野朝右衛門の長男として江戸に生まれました。
後述しますが、槍の師範である山岡家に養子として入ったのが安政2年(1855年)のこと。同家の跡を継いで山岡姓となりました。
ともかくこの山岡、武芸のサラブレッドとも言えるほどの血筋でして。
実家の小野家も武芸の家柄、母の家は剣豪・塚原卜伝を祖先に持つというのです。
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ご本人にも、やはり才能があったのでしょう。
幼い頃から神陰流、槍術樫原流、北辰一刀流を学び、メキメキと力を付けます。
16才で母、17才で父を亡くすという不幸に見舞われながら、山岡はたくましく成長。
身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)という、当時としては規格外の体格にまで育ちました。
幕末から明治時代の男性平均身長が155センチ程度とされていた時代にこの体格です。
現在だったら2メートル越えくらいの感覚でしょうか。
そりゃあ、強いのも、納得ですね。
「幕末の三舟」の一人・高橋泥舟は義理の兄弟
嘉永5年(1852年)。
山岡は父の死に伴い、江戸へ戻って幕臣となります。
父は生前、3500両もの大金を貯めていました。
「俺が死んだらこれで御家人株でも買えばいい。それで身を立てろ」
そう言い残していたのです。
そしてその翌1853年、黒船が来航します。
勝海舟や福沢諭吉のような、西洋流の学問に通じた者とは異なり、山岡は武芸の男。
彼自身の政治的な見解としては「異人め、許さん!」程度で、当時としては平均的なものでした。
山岡は千葉周作らから剣術を、山岡静山から槍術を学びます。
そして静山が亡くなると、その妹・英子を妻に娶り、山岡家の婿養子として跡を継ぐのです。
ちなみに静山の弟が「幕末の三舟」の一人である高橋泥舟。
泥舟は槍の達人であり、母方の高橋家を継いでいました。
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新選組に入るところだった!?
安政3年(1856年)。
刀槍の技量を認められた山岡は、講武所剣術世話役に任命されます。
さらに翌安政4年(1857年)には、清河八郎と共に「虎尾の会」を結成。
ここでピンと来た方もおられるでしょうか。
そう、清河八郎といえば新選組です。
清河の働きかけにより、文久2年(1862年)、幕府は浪士組を結成させ、山岡が取締役に任命。文久3年(1863年)には、将軍・徳川家茂について上洛します。
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幕府は、この段になって初めて清河の目的に気づきます。
彼の目的は、将軍家ではなく天皇家配下の戦闘員を集めることでした。
そこで幕府は浪士組を江戸に呼び戻すのですが、京都に残留した試衛館の者たちが新選組となります。
山岡は、このとき江戸に戻ります。
そして、清河が暗殺されると、彼と親しくしていた山岡も謹慎処分となってしまいました。
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