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【山岡鉄舟】
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「島津の殿様なら、同じ条件で呑めますか?」
西郷の条件は以下のようなものでした。
・江戸城は明け渡すこと
・城内の兵はすべて向島に移すこと
・兵器をすべて差しだすこと
・軍艦をすべて引き渡すこと
・慶喜の身柄は備前藩に引き渡すこと
山岡は条件をほぼ呑みましたが、最後の慶喜の身柄についてだけは不承知でした。

徳川慶喜/wikipediaより引用
そんなことをしたら、戦争は不可避と悟ったからです。
「朝命に従うこっがでけんのか」
西郷は凄みますが、山岡も怯みません。
「立場が逆だと考えてみてください。島津の殿様に対して同じ条件を出されて、それであなたは呑めますか。見殺しにできますか。あなたにとって義とは何ですか。こうなったら鉄太郎も我慢はできません」
そう言われると、西郷も反論できないのです。
「先生の言うこたあもっともござんで。慶喜殿のこたあ、おいが取い計らいもす」
西郷も納得しました。それから西郷は山岡に酒を勧め、通行許可証を渡したのです。
山岡の頰を、熱い涙が流れ、西郷に感謝しました。
これで何とか無血開城へと筋道がついた――。
山岡は急いで勝海舟の元に戻ります。そして山岡立ち会いのもと、西郷と勝の会談は成功し、江戸は戦火から守られます。
江戸城の無血開城の背景には、山岡必死の奔走があったのでした。
このことについて、山岡本人はそうではないものの、彼を慕う弟子は苛立ちを覚えていたようです。
剛毅木訥な勝に対し、弁舌と文才に長けた勝はプロデュース力があります。山岡の口が重いのに対し、勝はそうでもない。そのせいで、この交渉をまとめあげたのは勝の功績とされてしまいがちなのでした。
それに対して弟子たちは「勝がおれの師匠の功績を横取りしやがった、ふてぇ奴だ!」と不満を漏らしていたのです。
この誤解が結実した典型が、結城素明画『江戸開城談判』です。和室で西郷隆盛と勝海舟が向き合っている絵で、【無血開城】といえばこの絵を思い出す方も多いことでしょう。
実際に西郷の前に座っていたのは、おれの師匠じゃァねえか!ーーそうなってしまうと。

江戸城無血開城のため西郷と勝が開いた会談を描いた『江戸開城談判』作:結城素明/wikipediaより引用
あくまで後世の想像で描いた絵が、印象を決めてしまうのも困った話です。
そのため、かつては日本史の教材定番でもあったこの絵は、現在ではあまり使われなくなっております。
これは何も山岡と勝だけのことでもありません。
幕末から明治にかけては、メディアが発達しました。そのため動乱の時代を生き延び、口がうまかったり、筆がたったり、あるいは新聞記者の取材に応じたものの証言が重くなってしまうことがあるのです。
特に負けた側の幕臣や佐幕藩の人々は、口が重くなる傾向があります。幕末はそこを踏まえて見ていきたいものです。
結跏趺坐したまま死す
明治維新のあと、山岡は、徳川家に従い駿府へ向かいます。
その後、いくつかの役職を経て、西郷の推薦により、明治5年(1872年)から十年間の期限付きで明治天皇の侍従をつとめました。
剛毅で高潔な人柄は、明治天皇からも大変気に入られたものでした。

エドアルド・キヨッソーネが描いた明治天皇/wikipediaより引用
子爵にまで上り詰めたものの、山岡自身は無欲でした。
維新の動乱に倒れた者を弔い、明治18年(1885年)には一刀正伝無刀流を立ち上げ。
明治21年(1888年)、胃がんを患っていた山岡は、皇居に向かい結跏趺坐したまま死去します。
享年53。
★
幕末から明治維新にかけての、激動の時代。
その時代は、策謀の多い者こそが勝つ、そんな過酷な時代でした。
維新が為されてからも苛烈な政治闘争は続き、多くの者が斃れてゆきました。
そんな時代に、誰も殺さず、剣と禅に生きた山岡鉄舟。
無私無欲、赤誠で道を切り拓き、まさに武士道の美を体現したような生き方でした。
彼の生き方は、血と煙の動乱の最中に放たれた、透き通った矢のようです。
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文・小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『国史大辞典』
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
桐野作人『さつま人国誌2 幕末・明治編』(→amazon)
ほか