渋沢栄一と言えば『論語』。
2021年大河ドラマ『青天を衝け』が放送されると、両者の関係がクローズアップされましたが、「学問命」のガリ勉タイプだったわけでもありません。
実は幼少の頃から、当時では考えにくいような恵まれた教育が与えられ、それを支えた人物がいます。
尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)――渋沢栄一の親類にして、大河では田辺誠一さんが演じた兄貴的存在です。
ドラマ序盤で漢詩を読む姿が印象的でしたが、史実では栄一と共に過激な行動に走ろうとするなど、歴史的知名度の割になかなか波乱万丈な生涯を送った方でもあります。
では一体どんな人物だったのか?
明治34年(1901年)1月2日に亡くなった、尾高惇忠の生涯を振り返ってみましょう。
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栄一の師匠・尾高惇忠
尾高惇忠は天保元年(1830年)、武蔵国榛沢郡手計村(現在の埼玉県深谷市)で生まれました。
父は村の名主(村長)を務める尾高保孝。
弟には剣士として知られる尾高長七郎、そして平九郎、妹には渋沢栄一の妻となる千代がいました。
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それだけでも栄一との関係性は強いですが、そもそも惇忠の母は渋沢家出身です。
つまり栄一とは従兄弟であり義兄弟の間柄でした。
惇忠は「幼少のときからよく書物を読み、そのうえ天性から物覚えがよい」人物だったようで(栄一談)、農民階級の生まれではありましたが、学問の才を活かし、自宅で私塾「尾高塾」を開講していました。
大河ドラマでも同様のシーンは度々出てきましたよね。
当時の栄一は手計村の隣にある血洗島村に住んでいましたが、そこまで惇忠の名声は響いていたと言います。
そのためでしょう。栄一はもともと父の渋沢市右衛門(渋沢元助)に学問を習っていましたが、7~8歳のときに「これからは隣村の尾高惇忠に勉学を習うとよい」と告げられ、以降、手計村まで約1キロの道を通って勉学に励みました。
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なお、この頃の勉学は、もっぱら「漢文」でした。
江戸時代は儒教の地位が非常に高く、特に『論語』をはじめとした「五経四書」(中国古典の教育)が重視され、それを惇忠に習ったのです。
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幕末にアクティブ・ラーニングの先見性
惇忠の指導法は特異なものだったと栄一は語ります。
当時の漢文指導は「一字一句の意味を説明し、それを丸暗記させる」というもの。
戦後に問題視された「詰め込み教育」の典型例で、子どもたちはひたすら文章を読み、声に出して覚えようとしました。
ところが惇忠は、一字一句の精読・暗記ではなく、本全体の通読や多読を重視したのす。
子どもたちに勝手気ままに読ませ、彼らが自分で自然と「ここはこういう意味だろう」と思い至るのに任せたというんですね。
今風に言えば「子どもの気づきを重視」する「アクティブ・ラーニング」のようなものでしょうか。そう考えると、惇忠の指導法は斬新かつ栄一に好影響を与えたことが想像できましょう。
さらに惇忠は、難解な「五経四書」だけでなく『通俗三国志』や『里見八犬伝』といった当時ではライトな作品を読むことも止めませんでした。これまた現代でいえばラノベのイメージですかね。
そのため栄一と惇忠の間で、あるときこんなヤリトリがあったようです。
「ちょっと低俗な小説は好きですが、こんなのばかり読んで大丈夫でしょうか?」
「読みやすいものから読書に入るのがもっともよい。たとえ五経四書を丁寧に読み込んだとて、その教えが生きるのはずっと後年のことだ。今は面白いと思ったものをひたすら読んでいれば、いずれ読解力がついて堅苦しい古典の面白さもわかってくるだろう」
言葉通り、栄一は気の向くままに本を読みふけりました。
結果、自他共に認めるほどの本好きに成長。
後年には『論語』の教えを広め、再解釈を試みるまでの読解力を培った――そんな栄一の背景には惇忠がいたんですね。
強烈な思想・水戸学に影響されて
尾高塾の評判は上々でした。
しかも惇忠の実家はその辺の武士をしのぐ豪農。
長男として家を継げば、安泰な暮らしができたでしょう。
しかし時は幕末に差し掛かり、黒船の来航によって徳川の世が揺らぎ始めていました。
こうした幕府の凋落と異国の脅威を同時に体感した武士たちが【尊王攘夷】で倒幕活動に走ったことはよく知られています。
そんな時勢ですから、田舎で暮らす惇忠たちも影響を受けずにはいられません。
特に彼らは幕末の強烈過激な思想【水戸学】に感銘を受け、尊王攘夷を志すようになりました。
彼らは「裕福な農民」でしたが「こんなときに百姓なんかやってられんわ!」と思うようになったのです。
しかし、惇忠はその思いをグッと堪えなければなりません。
長男として家業を継ぐためです。
そんな兄の無念を託されたのか。あるいは単に興味が勝ったのか。
弟の尾高長七郎はたびたび江戸へ遊学して剣術や思想を学び、危険も孕んだ幕末志士たちと盛んに交流しました。一方で……。
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