明治元年(1868年)3月13日は西郷隆盛と勝海舟が話し合い、江戸城無血開城が決定した日です。
この一件に関し、皆さんはどんなイメージを抱かれますか?
幕府と薩摩の話し合いにより、一滴の血も流さず本拠地を明け渡した。実に日本人らしい平和的解決である――。
そんな印象になりそうですが、実情は全く異なります。
確かに江戸で大きな戦火は広がりませんでしたし、当時の責任者だった徳川慶喜も落命することなく江戸から水戸、駿府へと移り、その後も生を長らえることができました。
しかし。
慶喜が助かった一方、実際は犠牲者も多く出て、夥しい流血の戦争は続きました。
犠牲になったのは、慶喜に忠義を誓った幕臣だったり、東北の佐幕派諸藩だったり。
その辺りの悲惨な歴史を描いてもおかしくない大河ドラマ『青天を衝け』では、ほぼスルーされ、江戸城無血開城で最大の功労者である勝海舟すら登場していません。
それゆえ最近ドラマで知った方は、
・江戸城無血開城がどんな展開で進められたのか
・責任者であるはずの慶喜が助けられたのはなぜなのか
といった重要な認識が不明かもしれません。
そこで本稿では、大河で描かれなかった【江戸城無血開城の真実】について考察してみたいと思います。
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勝海舟、突如呼び出される
慶応4年(1868年)正月。
勝海舟は氷川の自宅でのんびりと昼寝しておりました。
阿部正弘に登用されて以来、才智を十分に発揮してきたようで、ことはそう単純でもない。
彼が目をかけていた坂本龍馬らの動きを幕閣に咎められ、管理不行き届きだとして左遷させられたのです。
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慶喜は、そんな勝に泥沼となった第二次【長州征討】の戦後処理を押し付けました。
そのうえで和睦条件が気に入らないと一方的に免職処分にします。
ズケズケと諫言をする家臣を慶喜は嫌いました。有能なイエスマン、自分の手足として働く人物しか近づけない。
耳に痛いことばかりを言う勝とは相性が悪かったんですね。
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それが突如、慶喜が勝を呼び出した。
「こりゃ何事か?」と、浜離宮へ馬で向かう勝。開陽丸が到着すると、そこにいたのは、顔面蒼白、うつむいて誰も話すこともない一団です。
縮こまった将軍その人でした。
謡曲で鍛えた喉からほとばしる朗々たる声。明快な弁舌。勝すら言い負かせない聡明な姿はそこにはありません。
怯え、カリスマ性が消え去った敗残の将でした。
しかし、逃亡の顛末を聞いた勝は激しく怒ります。
「なんで大坂城に籠らず、こんなみっともねえ姿で戻ったんですか! あの城に籠ったら、十万に攻められようともったものを……かえすがえすも残念でなりませんな!」
慶喜はしばらく言葉を失い、ようやく一言呟きました。
「勝、頼れるのはもう、あなた一人しかいないのだ。よろしく頼む」
ちくしょう、なんでぇ!
江戸っ子・勝海舟の胸に複雑な気持ちが湧いてきます。
いけすかねえとはいえ、主君は主君だ。それにこうも小さくなられては、放ってもおけねえ!
勝の中で何かが芽生えた瞬間でした。
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勝海舟が頼られた一方、捨てられた人物もいます。
例えば、勘定奉行・陸軍奉行の小栗忠順。
シャープな知性と深慮遠謀を持つ小栗は、抗戦論を言い切りました。
有能なだけに、小栗ならできるかもしれない。しかし、慶喜からすればそれが怖かったのでしょう。
小栗もまた罷免したのです。
このあと小栗は、罪状もないまま処刑される悲運を味わいます。
結局、今まで冷や飯を食わせてきた勝海舟を海軍奉行並に抜擢したのです。
江戸城総攻撃は3月15日――そう決められていました。
さぁ、それまでにどうすべきか?
“腰抜け”将軍を歓迎しない江戸城
和歌山城下に旗本の竹内重太郎がいました。
遊撃隊士として逃げる最中だった竹内は宿の主人にボヤきます。
「そもそも将軍様が健在であれば、俺らはこんな苦労してないと思うんだよな……」
すると宿の主人は、ひそひそとこう言ってきたのです。
「ご心配なく。その上様ならお忍びでこの宿に……」
「えっ!?」
竹内は唖然としました。
確かに何やらそんな気配は察知できました。
こうした慶喜お忍び伝説は複数残されていて、それほどまでの電撃逃亡劇が展開されていたのです。
大坂城から江戸城まで、逃亡の四日間――慶喜は毛布にくるまり、缶入りビスケットで飢えを凌いでいました。
浜離宮で勝が目にしたのは、こうして縮こまり、眠れず、飢えていた将軍の姿でした。
もしかすると慶喜は『江戸城なら、もっとあたたかい歓迎をされるかも』と甘い願望を抱いていたかもしれません。聡明でありながら見通しが甘い悪癖が彼にはありました。
では実際の江戸城内は?
無茶苦茶でした。
普段ならば人がいて話声がする広間に誰もいない。そうかと思えば、あぐらをかいて座り込んでいる奴もいる。怒鳴り出す奴もいる。ブランデーの小瓶を出してクイっとやけ酒をあおっているまでいる。
殿中自殺を遂げる者も出てきました。
そんな城に【鳥羽・伏見の戦い】で負傷した会津藩兵が運ばれてきます。
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慶喜は自ら見舞いに向かうと、その中にいた島津忠三郎がいきなり慶喜に言いました。
「上様は正真正銘の腰抜けですな! しょせんあてにならない方だ。さっさと国の水戸にでもおかえりなさい。五千の兵でも集めて四境を固めればよいでしょうよ!」
さしもの慶喜も言い返せず、黙り込むしかありません。無礼だと嗜めるものすらいない。将軍に対する経緯どころか、冷たく無関心な眼差しだけがありました。
まさに「針の筵」となった江戸城。前橋藩家老の山田太郎左衛門らが、こんな提案をするほどです。
「いっそ将軍を禁錮し、朝廷に差し出し、徳川家存亡をはかってはいかがか」
それはありだと言いたくもなりますか?
流石にそれはないのですが、こんなことまで提案されるほど、江戸城は無茶苦茶な状態だったのです。
和宮にすがる慶喜
大奥へ通じる御鈴廊下を将軍が歩き、女たちが伏せる――時代劇の定番場面ですね。
しかし、戦場からおめおめと逃げ帰った上様に対し、大奥がそんな殊勝な態度を取ることはありません。
なにせ、大奥は慶喜の父である徳川斉昭のころから彼らを憎んでいます。
大奥女中を無理矢理暴行のうえ妊娠させ、予算削減しろといちいちねじ込んできた斉昭。その子の慶喜なぞ、顔を見ることすらおぞましい。
そもそも京都にいて大奥に足を踏み入れてもいない。
そのくせ、予算削減だけはしつこかった!
大奥は仕返しをします。布団を欲しいと言った慶喜にこう言ったのです。
「予算削減で余った夜具なぞありません、毛布で寝てください」
歴代徳川将軍の中でも、毛布に包まって眠る羽目になったのは、それこそ慶喜だけでしょう。
大奥の頂点に立つ天璋院篤姫も当然激怒しています。
弱腰の慶喜なぞ無視し、彼女は奥羽越列藩同盟に激励の書状を送り、かつ後に徳川家達となる田安亀之助に未来を託していました。
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そしてもう一人、大奥から敬愛されていた人物といえば、家茂の未亡人・和宮がいます。
夫の死後、京都に戻ることもできず、この大異変につきあたったのです。
剃髪して二の丸で暮らし、静寛院宮と称されていた和宮。そんな彼女に慶喜は泣きつきます。
「朝廷に逆らうつもりはなく行き違いだった、やむを得ないことだった」
そう弁明した上で、徳川家の存亡を朝廷に頼むよう訴えたのです。
和宮『静寛院宮日記』には、嫁いだからには徳川家を滅ぼしたくないと書かれており、美談として引用されます。
その一方、和宮が当時残した書状には本音が書かれていました。
夫であった家茂のために苦労をするならばわかる。しかし、よりにもよって朝敵・慶喜ごときのために身命を捨てるなぞ、父である帝を穢すことになる。残念でなりません――。
ここまで慶喜に冷えきった心だったとはいえ、和宮は己の役割を果たしました。朝廷との交渉を引き受けているのです。
よほど堪えたのでしょう。慶喜は、天璋院と和宮の慰霊は欠かさなかったとされます。
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このことを聞いた大久保利通は、こう書きました。
あほらしさの限りの御座候。
朝敵として討伐されながら、隠退くらいで謝罪になるって? 舐めてんのか? そんな苦々しい思いが記録されています。
刀を抜いたらただでは収めない薩摩隼人とすれば、その情けない姿に闘争心を掻き立てられたことでしょう。
薩摩藩の面々は、会津藩のようにきっちりと筋目を通した相手は武士として敬愛を示します。敵ながら天晴れ!ということですね。
しかし慶喜についてはハッキリと軽蔑しています。
煮え切らない慶喜の態度は、かえって西軍を硬化させたのです。
聡明であるはずの慶喜は、周囲の感情も、情勢も、何もかも読めていませんでした。
【江戸城無血開城】に向けて、さしたる役目もありません。
かつて慶喜に翻弄された山内容堂、松平春嶽らは朝廷工作に動いていた証拠があります。和宮もそう。
しかし、松平春嶽がいつでも優柔不断であると評した慶喜は、己の命を守るべく右往左往するばかりでした。
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