江戸城無血開城

勝海舟・徳川慶喜・西郷隆盛/wikipediaより引用

幕末・維新

実際は流れた血も多かった江戸城無血開城~助かったのは慶喜だけ?

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捨てるフランスあらば、拾うイギリスあり

慶喜は一縷の望みをかけ、フランス公使レオン・ロッシュに面会しました。

レオン・ロッシュ
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これまで慶喜を熱心に支えてきたロッシュとしても幕府を助けるべく提案します。

「全国の大名に向けた新たな政治体制布告を出しましょう。京都の朝廷とは、薩長の干渉がなければ交渉しないと追い返すのです。フランスから兵も送りますから、フランス人士官に指揮を任せてください」

実に具体性のある案でした。しかし……。

「ただ……それなりの資金をいただかねばできませんな。シャスポー銃の代金はいつお支払いいただけますか?」

ロッシュは金勘定をしていたのです。

結果、慶喜はフランスを頼ることを放棄。本人曰く「朝廷に弓を引けない」とのことですが、ならば、はなから頼らなければよく、つまりは言い訳でしょう。

幕臣たちはこれ以前から、薄々勘づいていることはありました。

フランス人は友愛でもなんでもなく、金儲けのために力を貸しているのだと。むろんブリュネのような人物はいましたが、政治とは綺麗事でもありません。

金の切れ目が縁の切れ目であったフランスに対し、意外な人物が慶喜助命に動きました。

イギリス公使のハリー・パークスです。

ハリー・パークス
幕末明治の英国外交官ハリー・パークス 手腕鮮やか薩長を手玉に取る

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イギリスは抜け目なく薩摩と歩調を合わせ、朝廷とも接触を図っていました。

攘夷に固辞した孝明天皇の崩御後であればそれも可能。

東を目指す西軍が、江戸での決戦の際に出る負傷者の治療に協力して欲しいと申し込みに向かったところ、パークスは突如激怒します。

「西洋では、負けた国の君主の首を求めるような残虐なことは許さない、慶喜公は助命なさい! 死罪にするならば国際公法違反だ。日本がこれから先、国際社会にデビューするならそこのところを考えなさい!」

てっきり快諾してくれると思っていた西軍側は困惑するばかり。

「慶喜公は恭順しているのに、戦争を仕掛けるとはどういうことだ! 無政府国家と思われてもよいのか!」

なぜパークスが急にそんな態度を示したのか?

確かに慶喜に抱いていた親愛の情もあるのでしょう。のみならずイギリス人ということも関係しているかもしれません。

遡ることおよそ一世紀前、フランス革命を目にしたイギリス人はこう言いました。

「フランス人は野蛮だ! 国王に王妃をギロチンにかけ、平然としているとは!」

イギリスでは、国王斬首抜きで革命を成し遂げたという誇りもあります。

この時代のイギリスでは、あの名君であるエリザベス1世が嫌われてすらいます。スコットランド女王メアリ・スチュアート斬首があまりに酷いとされました。

 


幻の江戸焦土作戦と、勝の深謀遠慮

その頃、根っこが江戸っ子の勝は、おそろしいほどの博打作戦を思案していました。

江戸の焦土作戦です。

火事と喧嘩は江戸の華!

そうされるほど火災が頻発した江戸ですが、戦火で焼けたことはありません。

それがあやうくなったのが幕末です。

吉田松陰は【安政の大地震】の報告を聞き、長州から攻め上れば勝てるのではないかと妄想していました。

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生麦事件】の際には、イギリスの報復をおそれたこともあり、関東では治安が悪化しています。

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その悪夢を実現し、敵を破る――そんな奇策をナポレオンを撃退した【1812年ロシア戦役】から思いついたのです。

とはいえ、生まれ育った江戸を焼くとなると、当然のことながら気は重い。

火消し新門辰五郎らに話をつけつつ、同時に船頭にも交渉します。

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もしも江戸が焼け野原になったら、なるべく多くの人を逃してやって欲しい。

そして、自腹を切ってまで作戦を立てたものですから、勝の家計は火の車になったとか。

この焦土作戦は無駄だったのでしょうか?

そうとも言い切れないでしょう。愛する街を焼け野原にしないためにも、勝は全力で交渉に当たるしかない。気迫を胸に、あの西郷隆盛との対談に臨みます。

何かと交渉の阻害となりかけない会津藩や新選組を江戸から遠ざける。

薩摩隼人も好みそうな武士の中の武士、山岡鉄舟とはじめに話をつけさせておく。

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勝はあらんかぎりの智勇でもって、己の役割を果たすべく動いておりました。

そして総攻撃と予告された3月15日から遡ること2日前の3月13日、薩摩藩蔵屋敷で勝と西郷の会談が持たれます。

有名な絵もあり、この日にすべてが決したようですが、この二人だけの力でもなく、この一日だけのことでもない。

西郷と勝の会見を描いた『江戸開城談判』(結城素明:作)/wikipediaより引用

むしろ積み上げた勝の策を西郷が受け止めた、最終局面といえました。

決まったのは総攻撃中止です。

諸条件を詰めるのは西郷ではなく京都の薩摩藩、長州藩の上層部と朝廷の面々でした……そう言いたいところですが、実はここでもう一手ありました。

 

教師イギリス先生の生徒であった明治日本

彰義隊奥羽越列藩同盟、そして幕臣たちが江戸から函館まで戦う中、慶喜はひっそりと水戸へ送られました。

ここに裏話があります。

無血開城後の3月27日、勝は横浜のイギリス領事館に乗り込み、あのパークスと話し合いをしていました。

そこはパークスですから、傲慢極まりないのですが、勝の聡明さを気に入ったのか、態度を軟化。夕食をとりながらこんなやりとりしたのです。

「幕府サイドは慶喜公をどうするおつもりで?」

「これがなんとも困ってまして。まァ水戸に送りたいのですが、上野の寛永寺に預けてます。死罪や切腹だけは勘弁したいのだが、どうにかならんもんですかね」

「なるほど、ならば我が国の軍艦を貸しましょう。いっそ我が国に亡命したらいかがでしょう? 歓迎しますよ」

「ありがたいことです。じゃあ、その軍艦を一月ほど停泊させておいてもらえますか?」

「いいでしょう」

こうして保険をかけていたのです。

パークスは西郷を横浜まで呼びつけ、慶喜助命を念押し――美談のようでもあり、重要な要素もあります。

無血開城で早々に降伏したことで、日本は海外の干渉を防いだのである。

こんなことが言われますが、実際はどうでしょう?

政局は、パークスの判断で動いています。程なくして訪れる明治時代において、政府がイギリスの意向を受ける予兆に思えます。

実際にパークスの強い干渉を受け、樺太千島交換条約が成立。

日露戦争のころ、イギリス人とアメリカ人が日本人をけしかけ、ロシア人と戦うように迫る風刺画がで回りました。教科書でご覧になった方も多いことでしょう。

伊藤博文はのちにパークスのことを「彼の我々に対する態度はまるで、教師が生徒にするようなものだった」と振り返っています。

何かにつけ「文明国とは何か!」と振りかざされ、明治の政治家たちはパークスに戦々恐々としていおました。

そしてそんな傲岸な態度が、慶喜の助命に繋がったのですから不思議なものです。

4月11日、開城した江戸から慶喜が出て、水戸へ。

江戸城に乗り込んだ西軍は、そこで堂々とこれまで亡くなった者たちの霊を弔いました。

大久保利通は、慶喜への処置が寛大すぎるのではないかと懸念を示しています。

水戸に戻り、現地で兵士でも集めたら危険です。

実際、江戸から明治に変わる頃、水戸では諸生党への復讐に燃えた天狗党が暴れ回り、血で血を洗う惨劇が発生していました。

しかし、これが慶喜にとっては好材料となります。

水戸はこのことによって人材が枯渇し、無力化されたのです。

幕末一猛悪とされた水戸藩は同士討ちによって壊滅し、明治以降の人材が尽きたとすら言われました。

冷静に振り返ってみますと、【無血開城】とは果たして無血だったのでしょうか。

幕臣として慶喜たちに忠誠を尽くしてきた川路聖謨は、江戸城総攻撃が迫る中、ピストルで己の命を絶っています。

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川路にとっては勝の交渉も遅すぎました。

さらに小栗忠順も、抗戦を諦めていたにもかかわらず、新政府軍に捕まり、冤罪で斬首刑とされました。

他にも、幕臣たち、彰義隊、新選組、諸生党、奥羽越列藩同盟……と、多くの血が流れ続けます。

結局のところ、無血とは将軍慶喜の助命だけでは?と思えるのです。

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