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【郷中教育】
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もちろん武芸もテンコ盛り
郷中教育で、最も特徴的なのが、実践さながらの武術でありましょう。
平和な江戸時代でも弛むことなく武士としての誇りを重視した、薩摩ならではの風土・気風。数多くの武芸が奨励されました。
【武術カリキュラム】
主な剣術は3つです。
・示現流
・薬丸自顕流
・天真流
さらには剣術だけでなく、槍術、弓術、馬術、柔術、居合術も習いました。
独特の叫び声(猿叫)をあげながら、木刀を振り下ろす稽古風景は、薩摩藩を描くのであれば外せません。
【日常生活のルール】
郷中には、日常生活のルールもありました。以下、現代でもわかりやすいようにまとめます。
・忠孝を重んじ、武道に励みましょう
・礼儀を重んじ、親睦団結を心がけましょう
・山や坂道を上り下りして体を鍛えましょう(坂道達者)
・何事も詮議を尽くしましょう。ただし、決まったことには異議を唱えないこと。言い訳はしないように
・嘘をつかない、弱音を吐かない、卑劣なことをしない
・弱い者いじめをしない
・目上を重んじ、親に口答えをしてはいけません
・女とは一切関わってはいけません
・金銭を持たないこと。一人で買い物をしてはいけません
・飲酒喫煙は禁止です
・歌舞音曲芝居鑑賞は禁止です
・旅頭巾襟巻、防寒具は禁止。木綿を着ること
・刀を持たずに外出しないこと。脇差し一本でうろつくようなことはしない
・どんな場合でも刀を抜いてはいけません。もしも抜いたら、ただおさめるようなことはしないように
・槍を持った役人には礼をしましょう
・他の家の果物がなった木、壁、屋根に手を掛けてはいけません
【年中行事】
さらには年間行事も用意されておりまして。
この行事は、「鹿児島三大行事」として、現在まで伝わっています。
◆曽我どんの傘焼き:曽我兄弟の故事にならい、傘を積み上げて焼く行事。郷中の子供たちが近隣から古い傘を集める習わしでした(かごんまナビ)
◆妙円寺詣り:関ヶ原における島津義弘の敵中突破「島津の引き口」の苦難をしのぶ。
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鹿児島市内から義弘の菩提寺:妙円寺(現在の徳重神社)まで、鎧兜をつけて往復およそ40キロを歩く(日置市妙円寺詣り)
現在、「チェスト関ヶ原」は「ブチ殺せ」という意味の隠語であるというネタが話題となっております。
しかし、本来は「妙円寺参り」の際に気合いを入れるための言葉です。
◆赤穂義臣伝輪読会:赤穂義士討ち入りの日に『赤穂義士伝』十五巻を郷中仲間で朗読する
「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」
現在まで、薩摩の気風として、教育として、そして行事として残る「郷中教育」。
西郷はじめ、多くの偉人を育て上げた教育でもあります。
芯が通り、厳しい教育内容は、まさしく当時の藩としてもトップクラスのものであり、それも納得できる、充実した内容であることがおわかりいただけたかと思います。
鹿児島には、「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」という言葉が今も伝わっています。
「泣くか、跳ぶか、迷うんだったら跳んじまえ!」という、勇気を称えた「郷中教育」の気風を感じます。
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文:小檜山青

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【参考文献】
西郷隆盛公奉賛会『西郷どんと薩摩士風』