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【アーネスト・サトウ】
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それまでにもカンタンな文章の訳をしていたにせよ、初仕事にしては随分と難儀な仕事ですよね。
倒幕間際の1866年(慶応二年)には英字新聞『ジャパン・タイムズ』で論文を連載したこともあります。
原文はもちろん英語ですが、後に日本語訳が「英国策論」として出版され、西郷隆盛や伊達宗城(むねなり)など、倒幕に一役買った人々も読んでいたそうです。
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中身は「江戸幕府もうダメじゃね?新しく天皇中心の国にしたほうが良くね?そしたら貿易もできて(多分)儲かるよ!」(超訳)というもので、まさに倒幕側の考えと一致していました。
本国で対立するフランスが江戸幕府に肩入れし、イギリスは薩摩べったりでしたので、ある意味、代理戦争なんですけどね。
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倒幕~日露戦争の時代をナマで見ていた
サトウの来日は幕末でしたので、戊辰戦争その他日本の動乱をつぶさに見ています。
会津降伏後の会津へ行って、殿様の松平容保が東京に護送される様子なんかもシビアに見ていて、領民たちが悪口を言っている様子などを記録に残しております。非常に生々しいです。
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途中、一時帰国したり、別の国で働いていた時期もありますけども、概ね倒幕~日露戦争まではほぼリアルタイムで情勢を知っていました。
日露戦争の時には北京におり、イギリスへ帰る前に日本へ立ち寄っています。
どう考えても遠回りですが、既に60歳を超えていましたので、行けるときに行きたいと思っていたのでしょうか。
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日本人妻と3人の子供を残すも……
ちなみにサトウは日本人女性・武田兼と事実婚をしており、三人の子供に恵まれています。
次男の武田久吉についてはロンドンで勉強できるように取り計らっていたり、家族と同居することはなかったものの、冷遇一辺倒ではありませんでした。
おそらく感情的な理由ではなくて「外交官=どこへ赴任するかわからない=西洋の生活に慣れない妻子を連れ歩くのはどうよ?」というところだったのでしょう。
ちなみにこの兼さん、洋装姿の写真が残っています。
日本人女性らしいお顔立ちなのにとても似合っているんですよね。こりゃ惚れる。
サトウもかなりのイケメンですので、さぞ似合いの夫婦だったでしょうね。
サトウはその後イギリスに帰り、1929年(昭和四年)に86歳の生涯を終えました。
晩年は孤独だったようで、できれば日本に移住したいと思っていたようです。運悪く寿命のほうが先に来てしまい叶いませんでした。
当時は飛行機もなく船旅のみ、イギリス~中国まで一番いい船でも3ヶ月くらいかかっていた時代ですので、老体や病身ではほぼ不可能だったでしょう。
せめて遺品だけでも家族の元に届いていればいいのですが。
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【参考】
国史大辞典
新人物往来社『異国人の見た幕末・明治JAPAN 愛蔵版』(→amazon)
アーネストサトウ/wikipedia