薩摩犬を連れた浴衣姿の、あの像を見ていると、ジンワリと親しみが湧いてきますよね。
恰幅の良さからして、懐の深い、大らかな人物像も連想されるでしょう。
しかし、人間というのは見た目がすべてではありません。
特に幕末維新期の西郷にのしかかった重責や悲劇は相当なもので、メンタル面では非常に脆い一面も見せたりしてました。
それはときに、
『実は西郷って、ガラスのハートのように繊細?』
と思わせるほどで、銅像からは考えられないような人間臭さも持ち合わせております。
英雄というより、むしろ中間管理職のようで、我々庶民でも同情を寄せてしまいたくなるような……。
今回は西郷どんのメンタルヘルスについて、迫ってみたいと思います。
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主君の死、自殺未遂、流刑でドン底
大河ドラマ『西郷どん』でも描かれた、西郷の精神的荒廃。
【安政の大獄】前後、確かに彼は追い詰められておりました。
一つの歯車の狂いをキッカケに怒涛の日々がやってきたのでした。
振り返ってみますと……。
島津斉彬と西郷の関係はとても深いものです。
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一橋派の工作時には、藩の上層部から「西郷が先走りすぎている」と見なされたこともありました。
篤姫を嫁がせているからには、家定と彼女との間に世継ぎを得ることを考えてもよいはず。
にもかかわらず西郷は一橋慶喜の擁立を考えている、と批判されたのです。
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そうした批判の集中砲火を浴びる西郷に、斉彬が救いの手を差し伸べました。
「安政5年の建白書」で、一橋慶喜を推すと明言したのです。
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以降、西郷が独走しているという批判を受けることはなくなりました。
江戸の世ならば、家臣が主君に尽くすのは当然です。
しかし、主君が家臣をかばうためにここまでするのは、異例のこと。西郷が「この主君のためならば死んでもよい」と感激しても、無理からぬ話です。
ところが、この主君が無念の急死を遂げてしまうのです。
西郷の頭に“殉死”の二文字がよぎっても仕方のないことでしょう。
しかし衝撃だったのは、その後の月照との入水でした。
いったんは生きることを選んだのに、なぜ二人で錦江湾に身を投げる――そんな極端な行動までしてしまったのか。
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当然、不甲斐なさもあったでしょう。
月照の保護は、近衛忠煕から託されたことでもありました。
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その任務を全うできず、追い詰められるかたちで入水。しかも自分だけ蘇生してしまう。
このことは西郷の心に生涯残る傷となりました。
自分は死んだつもりで皇国のために尽くすしかない――そう自らを奮い立たせても、虚しい気持ちが心を埋め尽くしました。
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西郷は晩年まで、橋本との書状を持ち歩いていました。
精神的な苦しみの根元には、一橋派として敗北し、一気に親しき者を失った哀しみの記憶がうごめいていそうです。
島で心身が絶不調に
数々の辛い体験を経て流刑となり、慣れない環境下に落ち着いた西郷。
当然ながら、心身共に蝕まれます。
話し相手も少なく、島では孤立した状況です。
精力的に動くこともなく、食っちゃ寝生活を送るうちに、スリムなボディにかなりの肉がつきました。
西郷はストレス太りをしやすかったらしく、私たちが想像するあの恰幅のよい姿は、流刑時代からとみるのが妥当なようです。
それまではスリムな筋肉質だったのです。
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だからこそ、より一層ストレスが溜まります。
子供も授かって多少は落ち着きを見せますが、それでも書状にはかなりの不満が記されています。
たびたび体調も壊していたようです。
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