西郷隆盛(石川静正画の油彩)/wikipediaより引用

幕末・維新

あの西郷さんも倒幕の重圧でメンタルはボロボロだった? 中間管理職は辛いよ

西郷さんといえば、上野の銅像がつとに有名。

薩摩犬を連れた浴衣姿の、あの像を見ていると、ジンワリと親しみが湧いてきますよね。

恰幅の良さからして、懐の深い、大らかな人物像も連想されるでしょう。

しかし、人間というのは見た目がすべてではありません。

特に幕末維新期の西郷にのしかかった重責や悲劇は相当なもので、メンタル面では非常に脆い一面も見せたりしてました。

それはときに、

『実は西郷って、ガラスのハートのように繊細?』

と思わせるほどで、銅像からは考えられないような人間臭さも持ち合わせております。

英雄というより、むしろ中間管理職のようで、我々庶民でも同情を寄せてしまいたくなるような……。

今回は西郷どんのメンタルヘルスについて、迫ってみたいと思います。

 


主君の死、自殺未遂、流刑でドン底

大河ドラマ『西郷どん』でも描かれた、西郷の精神的荒廃。

安政の大獄】前後、確かに彼は追い詰められておりました。

・信頼していた島津斉彬の急死

・保護を頼まれた月照と入水し、自分だけ助かってしまう

・流刑

一つの歯車の狂いをキッカケに怒涛の日々がやってきたのでした。

振り返ってみますと……。

島津斉彬と西郷の関係はとても深いものです。

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一橋派の工作時には、藩の上層部から「西郷が先走りすぎている」と見なされたこともありました。

篤姫を嫁がせているからには、家定と彼女との間に世継ぎを得ることを考えてもよいはず。

にもかかわらず西郷は一橋慶喜の擁立を考えている、と批判されたのです。

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そうした批判の集中砲火を浴びる西郷に、斉彬が救いの手を差し伸べました。

「安政5年の建白書」で、一橋慶喜を推すと明言したのです。

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以降、西郷が独走しているという批判を受けることはなくなりました。

江戸の世ならば、家臣が主君に尽くすのは当然です。

しかし、主君が家臣をかばうためにここまでするのは、異例のこと。西郷が「この主君のためならば死んでもよい」と感激しても、無理からぬ話です。

ところが、この主君が無念の急死を遂げてしまうのです。

西郷の頭に“殉死”の二文字がよぎっても仕方のないことでしょう。

しかし衝撃だったのは、その後の月照との入水でした。

いったんは生きることを選んだのに、なぜ二人で錦江湾に身を投げる――そんな極端な行動までしてしまったのか。

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当然、不甲斐なさもあったでしょう。

月照の保護は、近衛忠煕から託されたことでもありました。

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その任務を全うできず、追い詰められるかたちで入水。しかも自分だけ蘇生してしまう。

このことは西郷の心に生涯残る傷となりました。

自分は死んだつもりで皇国のために尽くすしかない――そう自らを奮い立たせても、虚しい気持ちが心を埋め尽くしました。

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西郷は晩年まで、橋本との書状を持ち歩いていました。

精神的な苦しみの根元には、一橋派として敗北し、一気に親しき者を失った哀しみの記憶がうごめいていそうです。

 


島で心身が絶不調に

数々の辛い体験を経て流刑となり、慣れない環境下に落ち着いた西郷。

当然ながら、心身共に蝕まれます。

話し相手も少なく、島では孤立した状況です。

精力的に動くこともなく、食っちゃ寝生活を送るうちに、スリムなボディにかなりの肉がつきました。

西郷はストレス太りをしやすかったらしく、私たちが想像するあの恰幅のよい姿は、流刑時代からとみるのが妥当なようです。

それまではスリムな筋肉質だったのです。

愛加那(とぅま)と結婚したものの、あくまで復権の野望は捨ててはいません。

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だからこそ、より一層ストレスが溜まります。

子供も授かって多少は落ち着きを見せますが、それでも書状にはかなりの不満が記されています。

たびたび体調も壊していたようです。

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