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【西郷のストレス】
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久光との不幸な関係
その後、西郷は流刑から許されて国元に戻るのですが、そこで不幸な人間関係始まります。
犬猿の仲としかいいようがない、新たな主君・島津久光との関係です。
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大人げのない幼稚な人物。
あるいは冷酷な人物と描写されがちな島津久光。
彼の名誉のために書いておきますと、そういう単純な話でもありません。冷静に見て久光はかなり優秀な人物だと思われます。
しかし西郷は、流刑の憂さを晴らすかのように、剥き出しの厳しい言葉を久光に投げつけています。
有名な「地ゴロ=田舎者」発言です。
主君が明かした上洛計画に対し、
「あなたは田舎者だから無理でしょう」
とダメ出ししてしまうのです。
斉彬の関係と比較すれば不満もあったのでしょうが、これはいささかやり過ぎでして。
こういう厳しい言葉を主君にぶつけるあたり、精神の不安定さが顕れている気がするのです。
ことあるごとに命令違反し、兄・斉彬の悲願であった上洛の足を引っ張る(ように、少なくとも久光には思えていました)西郷。
一連の行動に激怒し、再度、流刑を命じます。
今度は奄美大島よりも一等重たい、沖永良部島への流刑でした。
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一度目の流刑は、幕府の目から隠す意味であり、扶持米もありました。
しかし二度目は、完全に罪人としてのものです。
島妻を娶るような自由もなく、豚小屋のような座敷牢での暮らしを強いられたのです。
劣悪な環境での暮らしは、心身を蝕んだことでしょう。
明治維新でのストレスと傷
流刑から戻ったあとの西郷は、維新回天に力を尽くしました。
念願叶ったり――と言いたいところですが、戊辰戦争は彼にとっても深い痛恨を残します。
留守をずっと守ってきて、やっと日の目が当たった実弟・西郷吉二郎が戦死したのです。
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妹・琴子(『西郷どん』では桜庭ななみさん)の子、つまりは甥にあたる市来嘉納次も、戦場で命を落としました。
こうした親しい人々の死は、西郷の新たなストレス源になりました。
勝利の美酒に酔いしれることもなく、明治2年(1869年)には、温泉療養生活に入ります。
明治以降、西郷隆盛が抱えた心身の問題は深刻でした。
発熱
腹痛
腫れ物
下血
下痢
不快感
睾丸肥大(バンクロフト糸状虫によるもの)
肥満
胸の激しい痛み
欝
自殺願望
このあたりに該当する病気は何か?
馬淵まり先生に聞いてみたいところですが、私の拙い見立てでパッと思いつくのが、自律神経失調、およびそれを起因とした過敏性腸症候群です。
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現代でも、叱責されると身構えただけで、胃がキュッとなり下してしまう、そんな経験をお持ちの方も多いかと思います。
そういえば【三成腹】といって、石田三成がすぐ腹を壊した話もありますね。
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どっしり落ち着いた印象の西郷隆盛ですが、実際には現在の勤め人も抱えるような悩みを数多く抱えておりました。
それのみならず、胸の痛みも抱えていました。
ストレス解消のためにヘビースモーカーになっていたことも、体調をさらに悪化させたようです。
明治以降、有名になった西郷の犬の散歩も、ダイエットとアニマルセラピーのような役目もあったわけでして。
恰幅のいい西郷さんが犬の散歩をしている姿からは、ほのぼのとしたものを想像しますけれども、実際にはかなり大変な状態だったのです。
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