西郷と沖永良部島

沖永良部島の田皆岬(たみなみさき)

幕末・維新

西郷は2度目の流刑先・沖永良部島でどんな生活を送った?なぜ薩摩へ戻れた?

2025/02/19

徳川将軍の継嗣問題から発展した【安政の大獄】。

その圧迫から逃れるようにして月照と錦江湾に入水し、結果、一人生き残った西郷隆盛は、藩から奄美大島への流刑を言い渡されます。

島での生活は、吉之助にいっときの休息をもたらしました。

2番目の妻・愛加那との間に、西郷菊次郎と菊草が誕生したのです。

一男一女と南国の温暖な気候に恵まれながら1862年、ついに政務へと復帰するのですが……。

すぐさま彼は二度目の流刑処分となります。

一体何が起こったのか?

元治元年(1864年)2月20日は、沖永良部島にいた西郷に、薩摩へ戻るよう連絡が届いた日。

本記事では、徳之島と沖永良部島での生活を振り返ってみたいと思います。

西郷隆盛/wikipediaより引用

※以下は奄美大島で狂人と呼ばれた西郷の関連記事です

奄美大島での西郷隆盛
奄美大島で「フリムン(狂人)」と呼ばれた西郷|現地ではどんな暮らしだった?

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西郷の復活

2018年度大河ドラマ『西郷どん』における西郷は、奄美大島での生活をエンジョイ。

復帰を目指していない設定でしたが、史実は真逆でした。

※以下は流刑地(1度目が黄色の奄美大島で、2度目が赤の徳之島と沖永良部島)で沖縄のすぐ北にあります

奄美大島では愛加那という「島妻(あんご)」がいたものの、彼女の存在は西郷の野心を止めるブレーキとはなりません。

彼女との関係はあくまで一時的なものであり、西郷の書状には「使用人」扱いしているものすらあります。

西郷が、人の目を気にせずに愛撫するほど、熱愛したという愛加那。

その一方で、彼は冷静に割り切っていました。冷たく思えますが、現代人の目線から、その行動を批判することは難しいでしょう。

西郷の願いは、文久2年(1862年)に叶うこととなります。

西郷と親しい大久保一蔵(利通)が、島津久光に接近。

大久保利通(左)と島津久光/wikipediaより引用

その助力を得て、西郷の復帰を叶えたのです。

西郷と大久保らが率いる「精忠組」にとって、やっと【俺たちのターン】が始まったといえました。

ただし、ここで注意したのは、島津久光が家臣のいいなりになる無力な君主ではないということです。

その辺りは、過激な松下村塾生に引きずられていった長州藩とは違うところ。

【精忠組】がいかに権力を握ろうとも、あくまでそれは久光のコントロールあってのものでした。

 


島津久光上洛計画

『西郷どん』では島津斉彬との対比で「賢兄愚弟」として描かれている島津久光。

実際には胆力と頭脳を備えた優れた政治家であり、のちに彼と面会したイギリスのハリー・パークスは、久光こそ日本でも最も優れた政治家と評価しております。

ハリー・パークス/Wikipediaより引用

史実の久光の事績をたどると、それも納得ができるものでして(詳細は以下の記事にございます)。

島津久光
西郷の敵とされがちな島津久光はむしろ名君か|薩摩を操舵した71年の生涯

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父と兄の死後、政治の表舞台に立った久光には、ある計画がありました。

兵を率いて上洛。

かつて兄・斉彬が属していた一橋派の政治復帰を目指す――政治改革を幕府に迫るものでした。

そこで久光は、兄の懐刀として活躍した西郷を呼び戻し、意見を求めたのですが……。

西郷は、爆弾発言をしてしまいます。

久光に向かって

「地ゴロ」(田舎者)

と言ってしまうのです。

それでも久光は、堪えました。

内心、凄まじく腹は立ったでしょうが、国父としての度量を意識したのかも知れません。

問題は、その後でした。

 

久光の激怒

島津久光の上洛を受け「精忠組」でも過激な一派が暴走。

久光の命令と朝廷の意に背いたとして、処断される事件が発生します。

【寺田屋事件】です。

寺田屋

これにて「精忠組」は大打撃を受けました。

大暴走が起こる前、大久保は人望のある西郷を呼び寄せ、引き留めてもらおうと考えていました。

そこで西郷は待機命令を無視して、下関、さらには大坂に向かいます。

この無断行動が久光の耳に入ってしまうのです。

ただでさえ「地ゴロ」と軽んじられていた久光は大激怒。

もはや切腹させるしかないと、西郷に怒りをぶつけます。

西郷は釈明の機会も与えられないまま、二度目の流刑地へと向かうこととなったのでした。

 


あまりに厳しい処分

奄美大島の流刑と比べ、第二次流刑は格段に環境が悪くなりました。

久光からすれば、「切腹でないだけありがたく思え」なのでしょう。

まず、留守家族が厳しい目にあいます。

二男・西郷吉二郎、四男・西郷小兵衛は「勤方差控」から遠慮処分。

三男・西郷信吾(西郷従道)は、「寺田屋事件」に連座したため、謹慎処分。

知行と俸禄と家財が全没収されるという、あまりに厳しい処遇です。

西郷従道/wikipediaより引用

島へと向かう護送船の中、西郷は一睡もせずに座りっぱなしでした。

寺田屋騒動の連座者である田中河内之介らは、護送中に惨殺されています。西郷自身も、暗殺を警戒していたのです。

沖永良部島にたどりついて便所に入ったとき、やっと西郷は安心したそうです。

 

第一次流刑よりも心身が痛めつけられる

二度目の流刑は、一度目の時よりもずっと西郷の心身を痛めつけました。

列島では政治の動きがますます加速しており、動乱まっただ中。そこからドロップアウトすることは、西郷にとってたまらなくつらいものです。

肉体的にも、厳しさを増しています。

彼が住むことなった座敷牢は、まるで懲罰房のようなもの。部屋の面積は二間四方(3.6メートル)しかありません。

しかも、トイレはその中です。

そんな状態ですから、不潔で、二十四時間排泄物の悪臭が漂っていたのでした。

西郷は髭を剃ることもなく、日光すら浴びず、過酷な暮らしを余儀なくされました。

日々衰弱していくのみ……。

薩摩よりずっと近くにある奄美大島の愛加那たちとは、同居できません。

数回、面会ができただけでした。

愛加那/wikipediaより引用

 

しかし人間的成長を遂げる

幸いにも、二ヶ月後に彼と友情を結んだ島役人・土持政照が境遇を改善してくれました。

彼は自腹を切って民家を買い取り、獄舎の横に移築してくれたのです。

やっと人間的な生活を送れるようになりました。

西郷は流刑先で、重大な知らせを聞きます。

彼が成功しないと酷評していた島津久光の上洛と、それに伴う政治改革が軌道に乗ったというものでした。

精神的な苦悩と、反省の日々を送る西郷。

西郷は内省的になり、より深い人間性を持つ人間として、変貌をとげてゆきます。

そこで西郷は、川口雪篷(量次郎)と出会いを果たします。

漢詩と書の名人である彼と親しく交わるうちに、西郷には人間的な深みが出てきました。

罪人であるからには自由行動はできませんが、島民に勉強を教えることができました。

「西郷先生」と呼ばれ島民から慕われる生活は、それまではなかった喜びが満ちていたのです。

彼は島で、人々に教える喜びを感じることになるのです。

 

西郷留守中の動乱

しかし、ここで西郷が穏やかな悟りを開いた男になったかといえば、そうとは言い切れません。

自分がいない間に薩摩で起こった大事件。

そうした重大事に関与できなかったストレスは、かなりのものでした。

大事件とは【生麦事件】から【薩英戦争】へと続く一連の流れです。

生麦事件のイメージ/国立国会図書館蔵

もうひとつは【八月十八日の政変】でした。

孝明天皇の意志を受けた薩摩藩・会津藩が、長州藩を追い落とした政変です。

この事件に怒りを抱いた長州藩藩士は先鋭化。

薩摩と会津への憎悪をたぎられせます。

彼らは【薩賊会奸】と書いた履物を踏みつけつつ歩いた逸話は有名です。

 

厳しい政治状況ゆえに復帰の舞台は整った

長州藩の感情は複雑です。

薩英戦争を戦った薩摩藩に対して色々な心情を抱きました。

そもそも攘夷をリードしていたという自負があった長州藩なのに、生麦事件と薩英戦争でエースの座を奪われた気持ちになった(薩摩藩としてはそんな攘夷チキンレースに参加しているつもりはなかったと思いますが……)。

そうかと思ったら、薩英戦争の後にイギリスと交流して貿易をしている。

続いて八月十八日の政変です。

もう薩摩は許せない!と考えた長州藩は、過激な行動に出ます。

島津久光暗殺予告を大坂でバラまく

・薩摩藩の船を砲撃して撃沈

「すまんすまん、外国船と勘違いした」として開き治った態度を取るのですが、薩摩藩としても密貿易船であり、コトを大きくも出来ません。

ちなみにこの事件で操船技術を失った薩摩藩が頼ったのが、勝海舟のもとで操船技術を学んだ坂本龍馬です。

坂本龍馬

さすがに長州藩は大人げないような気もします。

しかし厄介なことに彼らは京都を中心とした関西で大人気でして。

関西の人々は、長州藩の巧妙なプロパガンダにのせられ、彼らを支持するようになるのです。

【攘夷をするふりをして外国と貿易する汚い薩摩藩、そいつらに天誅を加える正義の長州藩】

そんな図式ですね。

薩摩藩は、京都で孝明天皇の意志を奉じてしっかりと政権に食い込んではいるものの、流石にちょっとダメージが大きくなっていきます。

それだけでなく一橋慶喜と松平容保、松平定敬の三名による「一会桑政権」が政治の中心に躍り出て、いよいよチカラを制限されてしまうのです。

徳川慶喜/wikipediaより引用

こうした苦境の中で、ジワジワと盛り上がってきたのが西郷の【再登板期待論】です。

数々の伝説を持ち、京都にも縁のある西郷。

かくして西郷はまたも薩摩藩に復帰し、政治の舞台に返り咲くや、いきなり禁門の変という大事件へと飛び込み、それから怒涛の日々を送るのでした。


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【参考文献】
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon
一坂太郎『明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon
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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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