西郷隆盛の弟といえば、西郷従道(西郷信吾)があまりに有名。
後に初代海軍大臣となり、その後も山本権兵衛を通じて日清戦争の勝利に貢献したことはよく知られています。
しかし、西郷には従道以外の弟も2人おり、四兄弟をリストアップしておきますと……。
実に4人兄弟中3名が戦死という、かなり悲運な一族とも言えます。
本稿では、1868年9月29日(慶応4年8月14日)に亡くなった西郷吉二郎を見て参りたいと思いましょう。
西郷家の二男・吉二郎
吉二郎は西郷家では二男にあたり、年齢的にも長男・隆盛と5才しか離れていません。
島津斉彬によって取り立てられた隆盛は、江戸や京都に向かうことが多くなりました。
しかも、二度の流罪も経験しております。
ほとんど鹿児島にいない隆盛に代わって留守を守ったのが、二男・吉二郎でした。
弟の従道は「精忠組(誠忠組)」の一員として活動。
この精忠組、もともとは『近思録』を勉強する薩摩の若手政治グループで、大久保利通が先導しておりましたが、斉彬の死後は、島津久光とに付き従うグループ(大久保ら)と過激化するグループ(有馬新七ら)に分かれ、従道は後者に属します。
それが1862年の【寺田屋事件】に繋がり、従道は、隆盛と同タイミングで処分を受けておりました。
内職をし、田畑を耕し
何かと目立つ兄の隆盛、弟の従道。
彼らと比べると、吉二郎はあまり活躍していないように見えます。
留守を守っていたのですから、当然といえましょう。仕方の無いことでした。
西郷家は大所帯の上、隆盛や従道の行動によって、しばしば謹慎処分等の罰則も受けました。
文久2年(1862年)の隆盛流刑の際には、西郷家の男子全員が無職となってしまいます。
西郷家の留守を守る生活は常に苦しく、吉二郎は内職をし、田畑を耕し、弟妹たちを食べさせてゆきました。
国事に奔走できるのは吉二郎のおかげだ――そう隆盛が語るほどで。
自分は年齢的には長男だけれども、実質的にそうだったのは、弟の吉二郎であったというわけです。
隆盛は、弟の献身に感謝することを忘れませんでした。
長岡で待っていたのはガトリング砲
そんな縁の下の力持ちであった吉二郎に、ついに活躍の機会が回ってきました。
慶応4年(1868年)。
番兵2番隊監軍として従軍し、長岡方面に配置されたのです。
しかし……実戦経験が不足した吉二郎が、よりにもよって長岡方面に配属されたというのは、不運としか言いようがありません。
戊辰戦争の中でも、長岡方面で起きた「北越戦争」は屈指の激戦地でした。
長岡藩では、有能な家老・河井継之助が、ガトリング砲等の優れた武器を購入。
この最新兵器の威力によって、西軍は大打撃を受け、多くの犠牲者を出したのです。
実はこの北越戦争、避けようと思えばそうデキたともされる戦いです。
河井と小千谷で談判した相手は、土佐藩出身の新政府軍軍監・岩村精一郎(高俊)。
世間では、河井が大人げないとかなんとか言われますが、むしろ問題があったのは岩村という意見もあります。
岩村は長州藩士から「キョロマ」(オラついていて軽率な性格)と呼ばれていたほどでした。
まだ20代前半で、しかも河井を「小藩の家老風情が」と侮る始末。
自身が経験不足と侮られていることを薄々感じていて、それを跳ね除けるため必要以上に強がったのかもしれません。
岩井精一郎がブチギレ、最悪の北越戦争に……
河井としても、交渉相手には、もっと大物の山縣有朋か黒田清隆を望んでおりました。
しかし、これを聞いた岩村が激怒。
「この俺が若造だと思って話もこたわんとゆうのか!」
河井の申し出は、岩村により一蹴されてしまいます。
いざ会談の場でも、岩井は、頭の切れる河井に完全に言い負かされてしまいます。
そしてしまいにはブチギレ。
「ええい、どうせおんし達は時間稼ぎをしちゅうがやろ!」
かくして河井と岩村の交渉は決裂。
泥沼の北越戦争が始まります。
このあたりの人選は「もっと他に人いなかったの? 戦争したくて選んだの……?」と後世突っ込まれがちなんですよね。
もっとましな人選をしていたら……そう思ってしまいます。
東軍だけではなく、これは西軍にとっても不幸なことでありました。
ガトリング銃を装備した河井は、強烈な奇襲攻撃を仕掛けます。
山県有朋はたまらず、裸で瓢箪一つぶら下げて逃走。西園寺公望は、陣羽織を裏返しに着たうえに、馬に逆さに乗って尻尾の方を前にして逃げ出したと言われています。
「山県さん、あなた、あのとき裸で逃げましたよねえ」
後年そう言われると、さしもの山県も「いやあ……」と頭を下げたそうです。本人にとっては黒歴史でしょう。
長岡城の戦いで戦死
戊辰戦争でも屈指の激戦である北越戦争に従軍した吉二郎。
実戦経験も少ないまま、よりによってこの戦地に従軍してしまったのは不運としか言いようがありません。
それは慶応4年(1868年)8月14日のことでした。
長岡城をめぐる攻防戦の最中、吉二郎は被弾。
そして、五十嵐川(新潟県三条市)において、呆気なく戦傷死してしまったのです。
享年36。

北越戦争・薩摩藩戦死者の墓/photo by 長岡外史 wikipediaより引用
西郷隆盛は、明治維新のあと気力を失ったかのように、中央から遠ざかってしまいます。
様々な理由がありますが、弟はじめ大切な人の死によって、やる気が削がれてしまったのかもしれません。
ジッと留守を守り、兄や家族のために尽くして来た吉二郎。
その初めての晴れ舞台で散ってしまうとは、あまりに哀しいことではないでしょうか。
もし生き延びて、戦功をあげることができていたら?
西郷隆盛の弟として、華やかな人生を送ることができたかもしれません。
兄の留守を守り、やっと歴史の表舞台に立ったと思ったら、死を迎えてしまった吉二郎。
その人生には落涙を禁じ得ません。
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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男 (編集)『幕末維新大人名事典』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
『国史大辞典』





