こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【西郷吉二郎】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
岩井精一郎がブチギレ、最悪の北越戦争に……
河井としても、交渉相手には、もっと大物の山縣有朋か黒田清隆を望んでおりました。
しかし、これを聞いた岩村が激怒。
「この俺が若造だと思って話もこたわんとゆうのか!」
河井の申し出は、岩村により一蹴されてしまいます。
いざ会談の場でも、岩井は、頭の切れる河井に完全に言い負かされてしまいます。
そしてしまいにはブチギレ。
「ええい、どうせおんし達は時間稼ぎをしちゅうがやろ!」
かくして河井と岩村の交渉は決裂。
泥沼の北越戦争が始まります。
このあたりの人選は「もっと他に人いなかったの? 戦争したくて選んだの……?」と後世突っ込まれがちなんですよね。
もっとましな人選をしていたら……そう思ってしまいます。
東軍だけではなく、これは西軍にとっても不幸なことでありました。
ガトリング銃を装備した河井は、強烈な奇襲攻撃を仕掛けます。
山県有朋はたまらず、裸で瓢箪一つぶら下げて逃走。西園寺公望は、陣羽織を裏返しに着たうえに、馬に逆さに乗って尻尾の方を前にして逃げ出したと言われています。
「山県さん、あなた、あのとき裸で逃げましたよねえ」
後年そう言われると、さしもの山県も「いやあ……」と頭を下げたそうです。本人にとっては黒歴史でしょう。
松陰の影響で狂介と名乗った山県有朋~西郷を慕い滅ぼした生涯85年
続きを見る
長岡城の戦いで戦死
戊辰戦争でも屈指の激戦である北越戦争に従軍した吉二郎。
実戦経験も少ないまま、よりによってこの戦地に従軍してしまったのは不運としか言いようがありません。
それは慶応4年(1868年)8月14日のことでした。
長岡城をめぐる攻防戦の最中、吉二郎は被弾。
そして、五十嵐川(新潟県三条市)において、呆気なく戦傷死してしまったのです。
享年36。
西郷隆盛は、明治維新のあと気力を失ったかのように、中央から遠ざかってしまいます。
様々な理由がありますが、弟はじめ大切な人の死によって、やる気が削がれてしまったのかもしれません。
ジッと留守を守り、兄や家族のために尽くして来た吉二郎。
その初めての晴れ舞台で散ってしまうとは、あまりに哀しいことではないでしょうか。
もし生き延びて、戦功をあげることができていたら?
西郷隆盛の弟として、華やかな人生を送ることができたかもしれません。
兄の留守を守り、やっと歴史の表舞台に立ったと思ったら、死を迎えてしまった吉二郎。
その人生には落涙を禁じ得ません。
あわせて読みたい関連記事
ホントはすごい西郷従道(信吾)兄の隆盛に隠れがちな”小西郷”の実力に注目
続きを見る
西郷隆盛~幕末維新の時代を最も動かした男~誕生から西南戦争まで49年の生涯とは
続きを見る
奄美大島で「狂人」と呼ばれた西郷~現地でどんな生活が待っていた?
続きを見る
西郷2度目の流刑「沖永良部島」はどんな生活?なぜ薩摩へ戻れたか
続きを見る
薩摩の惨劇・寺田屋事件(寺田屋騒動)はなぜ起きた? その結果どうなった?
続きを見る
有馬新七 最期の言葉は「おいごと刺せ!」幕末薩摩で屈指の激しさだった生涯38年
続きを見る
イラスト:小久ヒロ
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男 (編集)『幕末維新大人名事典』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
『国史大辞典』