2021年大河ドラマ『青天を衝け』主役であり、新札の顔にもなっている渋沢栄一。
著書の『論語と算盤』も人気を博していたこともあり、読者の皆様はこんな風に感じているかもしれません。
『渋沢って、論語に詳しいだけじゃなく商売も上手で素晴らしいですよね。ちょっとAmazonでポチッてみるか』
書籍のタイトルだけ見れば誰だってそう思うはずです。が、しかし……。
渋沢の『論語』については少なからず疑惑がつきまといます。
ぶっちゃけ精通していたというのは疑わしく、読者が鵜呑みにしてしまうのは危ういかもしれません。
そもそも彼は『論語』からイメージするような人格者どころか、非常に薄情かつ偏った拝金主義的な一面が記録にも残されていて、お札の顔や大河の主役になったことが不思議でならないほどです。
大袈裟だと笑われるかもしれませんが「本当は怖い渋沢栄一」を見て参りましょう。
明治末の『ポケット論語』ブーム
医師であり、第一生命創業者でもある矢野恒太という人物がおります。
さまざまな本も出している彼は、日露戦争後あたりから『論語』を愛読するようになりました。
そしてビジネスを思いついたのです。
『この論語を持ち歩けるようにしたらどうだろう?』
さっそく出版社へ企画を持ち込んだところ、編集者から「五百部でどうか?」と言われ、矢野は「五千部で!」と強気に出ました。
これが思わぬベストセラーになりました。
「最近の日本人はたるんでけしからん!」という江戸生まれの世代がまとめて買いして配ることもあった程で、ポケット論語が思わぬブームとなると、商売人として便乗する人物が出てきます。
それが渋沢栄一です。

1915年ニューヨーク市にて/wikipediaより引用
矢野がいつでもどこでも持ち歩けるよう、袖珍本(しゅうちんぼん・着物の袖に入れて持ち歩く本)として出版した『ポケット論語』。
いつしか世間ではこう言われるようになりました。
「渋沢栄一はどこへ行くにも『論語』を手放さず、持ち歩くほど入れ込んでいた」
しかし、この話は少しおかしいのです。
なぜか?
漢籍としての『論語』は、まずそんなにホイホイとは持ち歩けません。「入れ込む」というのであれば書斎に缶詰にでもならなければできない。
しかし『ポケット論語』なら話は別。
とっつきやすいマトメ本ですから、表層をサラッと頭に入れるのには参考になりました。この本で学ぶ研究者はまずおりません(当たり前ですが)。
実際に、渋沢の講演や言行をたどると『論語』についてそう詳しいわけでもなく、しかも『論語』を本格的に引用するようになったのは、明治40年(1907年)以降のことでした。
そう『ポケット論語』の発売からなのです。
図らずも傍証となる言葉が妻・兼子の口から出ています。
「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」
夫の女遊びを皮肉った彼女の言葉ですが、思わぬ芯を捉えていました。
『論語』を“見つけた”とあります。
細かいと言われるかもしれませんが、昔から“学んでいた”のではなく“見つけた”のであり、つまりはブームに便乗した疑惑が浮き彫りにされてしまった。
※以下は渋沢の女遊びまとめ記事となります
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女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル 大河ドラマで描かれなかったもう一つの顔
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この『論語』推しは、日露戦争勝利後というタイミングも重要でした。
明治以降、“脱亜入欧”を掲げてひた走ってきた日本が、大国ロシアに勝利したことにより、世界には日本人の優秀さに学びたいという需要が湧いてきます。
新渡戸稲造の『武士道』は、こうしたニーズに応えたものです。

新渡戸稲造/国立国会図書館蔵
『論語』は中国由来ではありますが、江戸時代になると広い範囲で学ばれていました。
各地の藩校で教科書として採用され、川柳に詠まれるほど身近な存在。
日露戦争以降という時系列も重要です。
『論語』再評価は時代の流れに一致していた
日清戦争の日本勝利によって、列強は中国支配に乗り出しました。
斜陽の清に代わる東洋の盟主は日本――そんな思想のもと、中国由来の文物も「東洋」とくくられ、盟主たる日本が誇ってよいという認識が広まり始めます。
歴史の授業で、明治時代は【富国強兵】を図っていたと説明されますよね。
国を豊かにしながら軍備も増強する、そんな組み合わせで進めていたようにも思えてきますが、ことはそう単純でもありません。
経済を優先すべきか?
それとも軍事か?
どうしても、どちらかに重きを置かざるを得なくなり、大久保利通と西郷隆盛の対立も、この富国強兵の対立構図がありました。

西郷隆盛と大久保利通/wikipediaより引用
二人が亡くなった後年、この構図は、日清戦争の勝利によって決着がつきます。
戦争で日本が手にした富は、莫大なもの。産業を富ませるより、戦争で勝利を収めた方が手っ取り早いのではないか? そんな思想が蔓延していったのです。
それがわずか十年後の日露戦争によって、岐路に立たされます。
英米の介入により辛勝をおさめたとはいえ、日清戦争の時のように大儲けとはいきませんでした。
反発した民衆が【日比谷焼打事件】を起こすほどで、

日比谷焼打事件で焼打ちにあった施設の一部/wikipediaより引用
以降、暴力的になってしまった民衆と、それに迎合するマスメディアが、好戦的な日本を作り上げてゆきます。
脱亜入欧は古い。東洋の盟主として支配してこそ、日本は偉大なる国家となる。そんな空気が醸成されていったんですね。
そして注目されたのが『論語』です。
東洋の盟主・日本が、西洋に対抗して掲げるものとして、うってつけの思想。
中国の思想や文化をよりよく理解し、使いこなせるのは日本であるとみなすようになってゆくのです。
その象徴として朝鮮が支配下に入り、渋沢栄一の肖像が紙幣にも採用され、中国大陸では満洲国が建国されました。
“脱亜入欧”から“大東亜の盟主”へ――そんな世相に合致するニーズを渋沢栄一はつかみ、『論語』という格好のツールを携え“時代の寵児”となったのです。
『論語講義』は誰が書いたのか?
渋沢栄一には『論語講義』という著書もあります。
やはり『論語』通じゃないか!
そう言いたくもなりますが、著者にご注目ください。
著者: 渋沢栄一・尾高維孝・二松学舎大学
渋沢栄一の『実験論語処世術』を元にして、渋沢が校長を務める二松学舎大学の尾高維孝が執筆したのです。
知名度もあり、渋沢名義が先頭に来るわけですし、渋沢の意図は反映されているでしょう。
しかし、実際に執筆したのは尾高です。
ここまでまとめると、かなり身も蓋もありませんが、こうなります。
矢野恒太の生み出した明治末の『論語』リバイバルブームに便乗してセルフイメージに利用。
自らの息のかかったものに『論語講義』を書かせて出版した。
そこにあるのは、人徳にあふれた人物ではなく、どこか狡猾な商売人の姿でした。
もちろん『(論語の)中身がチラッとわかればいいのよ』という方だっていたでしょうし、「それをキッカケに深く学べばいいじゃない」という考え方だってあるでしょう。
だからといって、渋沢を『論語』を愛読した人徳者として扱うことには懸念が生じます。
漢籍や中国思想の専門家でもない渋沢の儒教解釈は、かなりアヤフヤに感じることがしばしばあります。
要は、自己流が多く、さらには【水戸学】由来と思われる陽明学の影響も見られるのです。
ゆえに現代人が『論語』を学ぶのであれば、専門家の書籍が堅実だと思います。
実は同じことを幸田露伴も感じていたかもしれません。

幸田露伴/wikipediaより引用
漢籍に通じた幸田は、渋沢の伝記を執筆しながら、当人の話になると話題を逸らすようになりました。
何か危険な兆候を感じ取っていたのではないでしょうか。
そもそも『論語』は特別ではない
現代では『論語』を読んでいる人は、変わった人とみなされるでしょう。
しかし、渋沢栄一の世代であればそうでもありません。
かつてはエリートの教養であった『論語』ですが、日本が近代へと移り変わるにつれ、広く読まれるようになっていました。
そこでこんな提案を。
今から100年が経過した後世で、次のような伝記があったらどう思われますか?
「◯◯◯◯は『鬼滅の刃』を愛読していました。あの作品とビジネスを結びつけたところに、彼の素晴らしい発想があるのです!」
『鬼滅の刃』なんて今さら説明するまでもなく社会現象になった作品です。
誰だって読んでるし、ビジネスに結びつけることだって珍しいことじゃない。
しかし、それを上記のように語られたら「何を言ってるんだ、お前は?」とツッコミたくなりますよね。
翻って渋沢と『論語』です。
『ポケット論語』が出るほど大流行した時代です。そこに絡めてビジネスなりエンタメなりを企画したところで、特段珍しいものではない。
要は渋沢だけのオリジナリティではないのです。
『論語』から商業は学べるのか?
なぜ当時『論語』が読まれていたのか?
それは東洋では道徳なり教養として定着していたからです。
「儒教を宗教とみなせるかどうか」という点には様々な議論があり、中国では「儒仏道」という呼び方があります。
「儒教・仏教・道教」の教えは、並行して身につけるべき一般教養とみなされていたのです。
一方、中国では商人に特化した古典があります。
『陶朱公商訓』(とうしゅこうしょうくん)というのですが。
陶朱公とは、伝説の商人・范蠡(はんれい)のこと。BC5世紀、春秋時代の商人であり、四大美女・西施とも関わりが深い人物です。

左から貂蝉・楊貴妃・王昭君・西施/wikipediaより引用
すると『論語』の本場である中国からすると、渋沢はこう突っ込まれかねない。
「商売人なら、なぜ『論語』なの?『陶朱公商訓』ではないの?」
単に『陶朱公商訓』が『論語』のように広まっていなかっただけのこと。
日本では商売として成立しなかっただけのことでしょう。
では『論語』の教えを商売に取り入れたことは特別なのか?
渋沢栄一だけだったのか?
この点も気になるところですが……。
実は、中国では科挙受験に金がかかり、かつ経済が発達した明代中期頃から、科挙に必要となる儒教教典を身につけた商人が増えました。
『論語』と算盤という組み合わせは、特別とも言えません。
商売に関する思想というのであれば、フランス由来のサン=シモン主義など、もっと別の要素があったのではないかと思えます。
商業軽視の【水戸学】を信奉する
渋沢栄一は、商業を軽視したから幕府は滅びたのだと主張します。
しかし実際はそんな単純な話でもありませんし、そもそも矛盾があります。
彼は、幕末でも屈指の商業軽視・プライド重視だった人物が広めた思想に浸かっていました。
水戸藩の徳川斉昭と藤田東湖が唱えた(後期)【水戸学】です。

徳川斉昭/wikipediaより引用
水戸藩は御三家としてともかく見栄っ張りで、石高を上方修正して申告し、住民にはその分の重税を課しました。あまりにキツい税のため、逃亡する民衆も跡を絶たなかったほどです。
しかも、幕末になると、無駄金の消費傾向が極まる。
斉昭は攘夷を掲げてマウンティングを取ることばかりを重視し、役に立たない大砲や軍艦を作り、まさしく金をドブに捨てるようなことをしました。
さらには開国して海外貿易すべきだと判断した幕臣に反発して政治を引っ掻き回す。
ことあるごとに人々を愚民と見下していたのも斉昭です。
大河ドラマ『青天を衝け』で渋沢が地元の代官に反発していましたが、それより悪辣なことをしてきたのが斉昭であり、そんな為政者を渋沢は称賛していました。
そしてそれが幕末の水戸藩に大きな悲劇となるのですから悲しいものがあります。
天狗党です。
斉昭の薫陶を受けた彼らは、罪なき商人たちに金を出せと脅迫を続け、放火、惨殺、暴行を働きました。
他ならぬ渋沢も、天狗党と深い関わりがあります。
藤田小四郎と「畏友(いゆう・尊敬する友)」と呼び合うほど親しかったのです。

筑波山神社の参道入口のそばにある藤田小四郎像
それゆえ天狗党の一員であった薄井龍之は上洛し、助けを求めましたが、このときの渋沢は黙殺してことを済ませました。私からすると冷淡に思えるのですが、いかがでしょう。
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幕府において商業重視姿勢をとった井伊直弼も【桜田門外の変】において、【水戸学】を奉じた水戸藩士らの手によって討たれました。
その井伊が抜擢し、幕臣きっての経済通であった小栗忠順は、渋沢の矛盾を辛辣な皮肉で指摘しています。
「お前さんは面白い男だねぇ。
ついこの間までは、攘夷だの討幕だの唱えて、赤城山で挙兵して高崎城を乗っ取り、武器を奪って幕府を倒し、横浜から夷狄どもを海の向こうへ追い払ってやるなんて考えていたのに。
今はその幕府を心配しているってわけか!」
ではなぜ渋沢栄一が、商業ではなくテロリズムに傾倒していたか?
おそらく時代の空気に流されたのでしょう。
本人は生涯を通して算盤で生きてきたような語り口ですが、若い頃は尊王攘夷を掲げた危険な志士です。
幕府が商業を軽視したから倒幕を唱えた、というのも斉昭を信奉している時点で筋が通りません。
若気の至りの【水戸学】とも完全に縁を切ったわけでもなく、生涯、天狗党にシンパシーを抱き続けました。
明治政府には多数の【水戸学】信奉者がいたから、それも許されたのでしょう。
しかし慰霊のように無害なものならいざ知らず、藤田東湖を肯定的に紹介していたのですから、悪質かつ矛盾した態度と思わざるを得ないのです。

藤田東湖/wikipediaより引用
【水戸学】は明治時代から昭和前期まではむしろ推奨されました。
アジア・太平洋戦争での敗戦後は、皇国史観の根底を為すものとして否定的に扱われています。
“弐臣”であることを恥じず?
渋沢栄一の言行を見ていくと、論語の語り手どころか、儒教倫理に反しているのでは?と思うことがしばしばあります。
最大の疑念は、彼が“弐臣(じしん)”であることに尽きます。
こんな言葉を聞いたことありませんか?
忠臣は二君に仕えず――。(『史記』「田単伝」)
戦国時代はさておき、江戸時代ともなると、絶対の忠誠心が武士の心得として重視されました。
こうした評価は、中国史のことも踏まえねばなりません。
明から清への王朝交替は、中国のみならず朝鮮と日本でも衝撃を持って受け止められました。漢族が異民族である満洲族に敗れたからです。
そして明から清へ鞍替えした者は、清朝ですら『弐臣伝』に記録されました。
そこには「切り替えができていいね!」と褒めるニュアンスはありません。
むしろ呉三桂のような人物は、恥知らずとして罵倒されたものです。

呉三桂/wikipediaより引用
二君に仕えることを断固拒んだ明の方孝儒、朝鮮王朝の「死六臣」および「生六臣」は顕彰されてきました。
韓流ドラマ『王女の男』でも「死六臣」が登場。
そんな歴史を知る幕臣たちは、明治政府に仕えることに強い拒否感を見せています。
川路聖謨は、儒教倫理から出仕を拒んだ悲しい例といえるでしょう。
彼は伯夷・叔斉(はくいしゅくせい)の故事を引きつつ己の心情を書き残し、江戸城総攻撃と予告された日に、ピストルで自害という悲壮な最期を迎えています。
この伯夷・叔斉という兄弟は、殷から周に王朝が変わったことを嘆き、周の食べ物すら拒み、山菜を食べ続けて餓死しました。
周は孔子が理想とした王朝であるにも関わらず、この兄弟は忠を貫き、命を落としたのです。
儒教において讃えられ、理想とされた人物。
その彼らの心情に想いを寄せ、幕府とともに命を絶った川路聖謨は、まさしく儒教における忠臣の典型とみなせるでしょう。

川路聖謨/wikipediaより引用
川路聖謨のように命を絶つまでゆかずとも、葛藤と無念を噛み締めていた幕臣たちはおります。
“頑民“(頑固な民)として過ごすと言い残した小栗忠順。
新政府に目を光らせ、思想で立ち向かった栗本鋤雲からも、“弐臣”にはなるまいという強い意志を感じます。
渋沢と意気投合した福地桜痴にしても、政府出仕までにはアンビバレントな感情があります。
渋沢栄一が、福沢諭吉のように「儒教から学ぶことなどない!」と言い切ったのであれば、“弐臣”という古臭い概念なんて気にかけなかったのだろうと思えます。
くどいようですが渋沢は『論語』こそ己の原点にあると語っている。
どこが?としか言いようがないのです。
“天譴論”解釈をねじ曲げる
関東大震災のあと、渋沢は“天譴論”(てんけんろん)を主張しました。
一言でまとめるとこのような主張です。
天が驕り高ぶった人間を罰するために災害を起こすのである――。
要は、調子に乗っていた民衆が悪く、罰が下されたということです……。
元々は儒教由来の思想とされていますが、これも本場の解釈とは異ります。
中国ではこうでした。
天が驕り高ぶった為政者を罰するために災害を起こすのである――。
災害が起こったら、まず政治が正しいかどうか考えねばならない。ゆえに災害や天体現象は事細かに記録されます。
例えば始皇帝即位初期には天体現象が多く発生し、そのために政治が乱れるとされたものでした。
中国の皇帝はしばしば罪己詔(ざいきのしょう・己を罪する詔)を出しています。こうも乱れる世は、己の不徳ゆえであると反省していたのです。朝鮮でも、国難において名君はまず己を罰するものでした。
それを大正時代の日本では、君主の責任ではなく「民衆の堕落が悪い」ということにしてしまったのです。
関東大震災から遡ること5年前の大正7年(1918年)。
大阪朝日新聞が掲載した記事が事件となりました。
米騒動に関する記事で「白虹日を貫けり」という故事成語が用いられていたのです。
一体どういうことか?
「白虹日を貫けり」(白虹貫日)とは、日暈(ひがさ・にちうん)、幻日環と呼ばれる天文現象のこと。
中国の天譴論では「天子が不徳である現象」とみなされ、大正時代の日本に適用すると「天皇が悪い」という意味になります。
ゆえに問題視され、右翼団体が朝日新聞は「国賊である!」とまで糾弾し、襲撃事件まで起こしました。
渋沢がそのことを意識しなかったわけがありません。
下手をすれば自身が右翼に問い詰められる。ゆえに日本式の天譴論を大々的に展開し、本来の意味を変えたのです。
だからといって被害者を責め立て、権力サイドを免罪にしてもよいのでしょうか。
現代であれば炎上必至のすり替えでしょう。
商人は時代の流れを読む
渋沢は確かに経済的に成功しました。
しかし、それは時代の流れを読む商才と運が重なったことが要因であり『論語』とは関係ありません。
もう一つ辛辣ながら付け加えさせていただくと、時代を読み取るだけでなく、スンナリ迎合できることでしょう。
【水戸学】を震源地とする尊王攘夷で日本が煮えたぎっていた時代には、志士となる!
そうして倒幕を掲げていたにも関わらず、平岡円四郎に誘われれば保身のために幕臣となる。
【天狗党の乱】となれば友を見捨て、攘夷も口にしなくなる。
そしてフランスに渡航すれば、西洋礼賛となる。
幕府が倒壊しても殉じるわけではない。
天狗党とも繋がりのあった長州閥と親しくなり、政界にも顔のきく財界人となる。
おそらく人当たりのよさは抜群なのでしょう。
当時からして、どんなスキャンダルがあっても「あの渋沢栄一が?」と驚かれるところがありました。
色々な人と繋がりを持ち、仲をうまく取り持つことができたから、メディア受けも良かったのですね。
ゆえに新政府にも仕え、西洋流も受け入れ、世の流れを察知し『論語』ブームにも乗る。
慈善事業には貢献していたので、むろんその点は素晴らしいことと思います。
渋沢は奇貨を見出した
『キングダム』でもおなじみ、大商人の呂不韋(りょふい)は、趙の人質となっているみすぼらしい秦の公子、のちの 荘襄王を助けています。
しかし、呂不韋は優しかったから助けたのではありません。
「これ奇貨なり。居くべし」
お買い得だ。仕入れておけば儲かるだろう!
と、算盤を弾いていたのです。儲からなければ放置していたことでしょう。
渋沢栄一は、うまく自己プロデュースを成し遂げました。
なんせ金、権力、人脈があります。
自分の主張と、自分にとって名君としなければ勝手が悪い徳川慶喜の顕彰をいくらでもできました。
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仁なる者に、敵はなし――。
『青天を衝け』では、そう孟子の言葉が引かれています。
いかにも綺麗な言葉ではありますが、果たして渋沢栄一にふさわしいのか。
むしろ「これ奇貨なり。居くべし」のほうがシックリくる。
徳川慶喜という主君にせよ、『論語』にせよ、渋沢栄一にとっては商売や自己プロデュースにぴったりな奇貨でした。
渋沢栄一から学ぶことは
現代を生きる私たちは、渋沢栄一から何を学べるのでしょうか?
悲しいかな、多くはないと思います。
現在であれば、テロリズムやヘイトスピーチにつながりかねない尊王攘夷を掲げることは犯罪です。
『論語』のブーム便乗にしても、今ならばゴーストライター疑惑として週刊誌にすっぱ抜かれそうな話です。
女性がらみのスキャンダル隠蔽もまず無理でしょう。
チャリティを行うことで名声を高めることにせよ、限界はあります。
2021年、マイクロソフト創業者であるビル・ゲイツはインドでバッシングを受けました。
ゲイツ夫妻が立ち上げた慈善団体ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団が、インドにおいて医療倫理に反する違法行為を働いていた疑惑が浮上したのです。
このビル・ゲイツのようなことを、渋沢もしております。
明治末、高まるハンセン病患者収容の機運に、渋沢、医師・光田健輔らが乗りました。
そして明治40年(1907年)、「癩予防ニ関スル件」として、人権侵害である収容施設が日本と朝鮮に設置されたのです。
こうしたハンセン病患者への差別的な対応は、渋沢栄一のみならず北里柴三郎も関与していた。
渋沢らの主張には、当時の優生思想や、ハンセン病の毒性をペスト並に誇張したあやまった偏見が反映されており、大変な問題があることを忘れてはいけないと思います。
要するに、渋沢栄一をロールモデルとすることは危険でしかない。
人権意識が低かった時代ならともかく、現代では到底受け入れ難いものです。
そもそも『論語』にせよ、『論語と算盤』にせよ、読んだだけで人格者になれるわけではありません。
儒教は、何千年もの間、思想家や研究者が議論し切磋琢磨し、実践を目指したからこそ意義があります。
★
現代を生きる私たちの中から、第二の渋沢栄一が生まれてくるとは思えません。
しかし、それでよいのでしょう。
渋沢は、労働条件を改善する工場法の成立を十年以上妨害し、女性や未成年の労働条件緩和にも反対していました。
鉱毒事件を起こした足尾銅山の出資者でもあり、朝鮮では植民地支配の象徴としてとらえられています。
私生活に目を向ければ、妾と庶子が多数いました。
彼がなぜ、国を代表するようなお札になり、大河ドラマという国民的番組の主役に抜擢されたのか。
本当は怖い渋沢栄一。
その意味をご理解いただけたでしょうか……。
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【参考文献】
渋沢研究会『はじめての渋沢栄一』(→amazon)
パオロ・マッツァリーノ『エラい人にはウソがある』(→amazon)
片山杜秀『尊王攘夷』(→amazon)
小島毅『増補 靖国史観――日本思想を読みなおす』(→amazon)
小島毅『近代日本の陽明学』(→amazon)
若林力『江戸川柳で愉しむ中国の故事』(→amazon)
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