吉田松陰

『絹本着色吉田松陰像』/wikipediaより引用

幕末・維新

長州藩の天才・吉田松陰が処刑された真の理由は?30年の生涯まとめ

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さらに門下生には、軍資金の調達、一命を捨ててもよい人(少年でもいいとのこと)、武器の扱いに長けた人を集めるよう依頼を出しております。

藩の上層部に、暗殺協力依頼を出すあたりちょっと理解しにくいですよね……。

でも、これが松陰のやり方なのです。暗殺でも、コソコソとやるのは気に入らない、公明正大でならなければと考えるわけです。

藩上層部も、これには困り果てました。

仕方なく「学術不純にして人心を動揺す(不純な動機で学問をしていて、人々に悪影響を及ぼす)」という理由で、自宅「厳囚」処分を命じます。

それでも塾生が押しかけて危険なため、藩は野山獄に投獄することになったのでした。

とはいえこれも相当甘い処分でして。島津久光あたりなら、もっと厳しい処分を下しそうな気もします。

 

困惑する塾生たち

松陰の暴走に困惑し、政治への介入を煙たがったのは、なにも藩上層部だけではありません。

危険を察知して音信不通となる者。

計画を諫める者。

塾生でも龍虎と呼ばれた高杉晋作久坂玄瑞が止めに入りました。

「天皇陛下が新将軍を承認したんじゃし、このままでは殿に迷惑をかけてしまう。【義旗一挙】は時期が悪い。気持ちはわかるけど、自重しなさんせ」

桂小五郎(のちの木戸孝允)は、松陰の叔父・玉木と兄・梅太郎の了承を得た上で、友人と絶縁させています。

色々語り合うと結局は煮詰まって熱くなりそうですから、クールダウンさせたのでしょう。

しかし、これが逆効果でした。

「桂は無二の親友じゃと思うちょったのに、失望した。がっかりだ。皆、ぼくと意見が違う。ぼくは忠義を成し遂げたいのに、他の奴らは功業を成し遂げたいんじゃ!」

松陰は正義に酔いしれ、「落ち着け」と宥める周囲の声をシャットアウトしてしまいます。

気に入っていた吉田稔麿(当時は栄太郎)のことを「かつての魂を失った」と嘆いたばかりでなく……。

「栄太郎の心はもう死んでしもうたんじゃ。人としてこれほど惨めなこたぁない……」

そう語り、塾内で香を焚き、「死んでしまった栄太郎の心」を悼むというパフォーマンスをしました。

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周囲も困惑し、もはや手の施しようがありません。

ただ、流石にやり過ぎたと思ったのか、2日後には撤回謝罪する書状を吉田に送っています。

吉田稔麿は、松陰から贈られた書物を返すという形で、返事をしました。師弟関係を解消して欲しい、ということです。

「ぼくはもう血涙を止められん、こねえなんは受け取れん! きみがぼくを絶交してもええけど、ぼくからきみを絶交するこたぁできん!」と、松陰は受け取り拒否します。

師弟は大変な状況に陥ったのでした。

 

フレイヘイドじゃ! 草莽崛起じゃ!

野山獄で、松陰は書を読みあさりました。

その中の一冊がナポレオンについて記された『那波列翁伝初編』です。

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松陰の心に残ったのは「フレイヘイド」を掲げたナポレオンが、イタリアを解放する記述でした。

「フレイヘイド」とは「自由」ということ。自分と同じ一書生にすぎなかったナポレオンが「フレイヘイド」を掲げてイタリアを解放したように、自分もきっとそうできる――松陰はそう憧れていたのです。

悶々とした思いは、ナポレオンに思いを馳せることで、やわらぎました。

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かつて、師として草莽の志士を世に送り出したいと考えていた松陰。しかし、そうして育てた弟子たちは、彼の教えから顔を背け、離れてゆきました。

「もう、このぼくが、草莽崛起の人となり、死ぬるしかないんじゃ」

松陰の心に、熱い思いが燃えさかっていました。

獄中で、松陰は「伏見要駕策」を考えます。

参勤交代で江戸に向かう藩主の駕籠を伏見で待ち受け、公卿である大原重明を擁して京都に乗り込み、勅を入手後に幕政改革を促すという壮大な目論見でした。

 

身はたとひ 武蔵の野辺に……

安政の大獄」を推し進める幕府は、大勢の逮捕者を出していました。その中には、吉田松陰の名もありました。

松陰にかけられた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだ うんぴん)との交際に関してのものと、幕府中傷文書の作成についてでした。

どちらも軽微なもので、幕府側も彼をそこまで重視してはおりません。

幕府にとってメインターゲットはあくまで「戊午の密勅」背後にいた水戸藩関係者、橋本左内ら一橋派の中で大きな役割を果たした者たちなのです。

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長州藩は、手を焼いていた松陰のことを優しく遇しました。

護送には30名ほどが付き添い、食事も囚人用ではなく、番人用。これには松陰も感動しています。

松陰は、江戸の長州藩上屋敷に入り、訊問を待ちます。引き出された松陰は、拍子抜けしました。

「梅田雲浜とつきあいがあったようだな」

「幕府を盛んに中傷する文書の作者が、お前だという話があるが……」

嫌疑は、すぐに晴れました。このままなら、松陰は再び萩の土を踏むことができたでしょう。

ところが訊問が進むうちに、取り調べ側もだんだんと驚きを隠せなくなっていきます。

松陰の供述の中に【間部詮勝暗殺計画】と【伏見要駕策】が見え始めたからです。

いずれも幕府にとっては言語道断の重罪。

「なんということだ……、こ、この、公儀を憚らぬ不届き者めが!」

かくして松陰は、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。

死刑が決まった時、さしもの松陰も茫然自失。さらなる二度の取り調べを受け、斬首と決まりました。

安政6年10月27日(1859年11月21日)。松陰は命を絶たれました。

享年30。

門下生に向けて残した『留魂録』の冒頭には、以下の辞世が記されていました。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

この身が武蔵野に朽ち果てても、その魂は残してゆく――。

門下生に、松陰の魂は残ります。彼らはその志を実行に移すべく、幕末の動乱に身を投じることとなるのでした。

 

神格化される吉田松陰像

長州ファンには申し訳ありませんが、ここまで読むと「松陰のどのへんが偉大なの?」と感じてしまう人もおられるかもしれません。

確かに多くの若者を育成しました。

しかし、中途半端な時期で人生が終わったような印象を受けます。

実は今日私たちが知っている松陰像は、死後に弟子が神格化、伝説化したものです。

初めて取り組んだのは、松陰の妹を妻とした、つまりは義弟にあたる久坂玄瑞でした。

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さらには久坂が禁門の変に倒れ、しばらくして明治の世になると「松下村塾」出身者が政権トップに君臨します。

だから「松下村塾」が素晴らしかったのか?

それとも権力を手にした者が、自分の箔を付けるために吉田松陰を神格化したのか?

この点は冷静に考えねばならないでしょう。

文字通り、松陰は神となっています。

大正時代の松陰神社/wikipediaより引用

明治時代、松陰が神格化される中、皮肉にも松陰の実像はわかりにくくなってゆくのです。

明治26年(1893年)、徳富蘇峰が伝記『吉田松陰』を刊行し、その中で「革命家」と紹介しました。フランス革命後出現したナポレオンを崇拝していましたし、確かにその評価は間違っていないでしょう。

ところが「松陰先生を革命家とみなすたぁ何事じゃ! こねえなけしからん本を発刊してはならん!」と、有力な政府関係者から横やりが入り、潰れてしまいました。

松陰の研究は、しばしば権力の介入を受けているのです。

松陰の生き方をたどれば、当時の「国家」であった幕府の倒壊(あるいは改革)を目指し、藩にすら迷惑を掛けていた松陰。

しかし、そんな像を快く思わない人にとって、別の側面を与えられてゆきます。

教育者であり、忠君愛国の像。『修身』の教科書にも取り入れられ、熱血青年としての像が国民の間に浸透してゆくのです。

このことは、決して遠い過去の話ではありません。

日本史の授業で吉田松陰について習った時、老中暗殺計画について聞かされたことがおありでしょうか。

例えば『日本人名大辞典』には、こんな風に記載されておりまして。

幽閉された生家に、安政4年松下村塾(もとは外叔父玉木文之進の家塾)をひらき、高杉晋作、伊藤博文らにおしえるが、安政の大獄で6年10月27日刑死した。

確かに安政の大獄で死刑に処されたとは記されております。

しかし、本来は自ら「幕府要人の暗殺計画」を漏らしたせいであり、そういったことに触れられないため、倒幕の立役者を育成して死刑になったという読み方が妥当になってしまいます。

漠然と、そう記憶していた方も多いでしょう。

果たして松陰はそれを望んだでしょうか。

過度に人のイメージを守ることが正しいのでしょうか?

松陰自身も、命がけで草莽崛起をして、その結果として老中暗殺にまで思い至ったはずです。

後世、都合が悪いからと、そこを消してしまうのは、かえって惨いことではないかと感じます。

かつて大英博物館は、古代ギリシャの大理石像を磨き、塗装をこそげとり、漂白しました。

当時のイギリス人はじめヨーロッパ人が、本来は極彩色に彩られていた古代ギリシア人のイメージを、真っ白いものと考えていたからです。

【参考書籍】藤村シシン (著)『古代ギリシャのリアル』(→amazon

イギリス人の行動を聞いて『なんと不遜な』と思われる方の方が主流でありましょう。

吉田松陰の人生から、彼の過激な部分を消して検証することは、この像の漂白かに似ているのではないでしょうか。

無垢で都合のよいイメージを求めすぎて、本来あった姿や豊かな色彩、人間らしさを消失。

彼の行動はともかく、志は純粋で慕われるものであったはずです。

大切なのは、そのことではないでしょうか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
一坂太郎『吉田松陰――久坂玄瑞が祭り上げた「英雄」 (朝日新書)』(→amazon
一坂太郎『吉田稔麿 松陰の志を継いだ男 (角川選書)』(→amazon
『国史大辞典』

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