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【不平士族の反乱】
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残るは西郷しかいない!
かくして士族反乱は全て
「事前の根回し不足」
「内部からの情報漏洩」
などによって失敗していました。
行動していない人たちも含めて、不平士族たちは「人望と実績と軍事指揮能力がある人物が、自分たちを率いて何とかしてくれないだろうか」と思っていたことでしょう。
そしてその条件を全て満たすのが、西郷隆盛でした。
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明治六年の政変後、西郷隆盛は政界を離れて鹿児島で隠居生活を送っていました。
西郷のお供をして鹿児島に帰ってきていた数人が士族のための私学校を作り、反感をなだめていましたが、それは同時に「武道の心得のある人間の集団」を作ることにもなります。
士族への風当たりが強くなる中で、鹿児島の士族もまた政府への反感をつのらせていきました。
地租改正に反対する農民たちもまた、各地で一揆を起こしており、明治政府の足元は危ういように見えていたでしょう。
そのため、敬神党や旧秋月藩士・旧長州藩士なども、維新の功労者である西郷と地元・鹿児島の決起を期待していました。
当然ながら明治政府も警戒しており、スパイを送っています。
西郷は元々実力行使には反対だったので、それでも決起しようとは思っていなかったのですが……。
◆西南戦争
しかし、明治十年1月、明治政府のほうが決起の火種になるようなことをしてしまいます。
鹿児島の草牟田陸軍火薬庫にあった弾薬を、県庁に連絡せず回収しようとしたのです。
これは「鹿児島の奴らは信用できないから、こんな危ないもの預けておけない」と言うも同然。結果、私学校の士族たちを激高させ、彼らのうちの一部が陸軍や海軍の弾薬を奪いにかかります。
こうなっては西郷も止められず、旗頭となって反乱を指揮する覚悟を決めました。
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かねてから西郷らの決起を期待していた九州各地の不平士族も参加し、反乱軍はかなりの規模に拡大します。
事態を重く見た明治政府は、総督を有栖川宮熾仁親王とする征討軍を組織。陸海軍に警察まで加えて6万もの大軍でした。
これに対し、西郷軍は合計3万。
「何だ、倍も兵数の差があるんなら政府軍圧勝じゃん」と思った方もいるかもしれませんね。
しかし、「“西郷一人で”政府軍の半分にも及ぶ兵を集められる影響力があった」と考えれば、決して楽観視できない事態です。
もしここで政府軍が西郷軍に敗れるようなことがあれば、その影響は全国に及び、せっかく歩み始めた近代国家への道が崩れ落ちてしまいます。
こうして始まった西南戦争。
熊本城攻防や田原坂の戦いなどの激戦を経て、西郷軍は次第に南へ追い詰められていきました。
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西郷が自害して戦争が終わったのは、勃発から半年以上経った9月のことです。
政府軍の被害も甚大で、死者6800人、戦傷者9200人くらいだったといわれています。
「半数の敵軍相手に、自軍の1/4もの死傷者が出た」というのはとんでもない割合でしょう。
もしも西南戦争で、西郷軍に加わっていたような士気の高い兵を取り込めていたら、明治政府にとっても大きなメリットだったかもしれません。
一方で、西南戦争での政府軍勝利は「政府が徴兵によって作った軍が、本職であるはずの武士に勝てる」と証明することにもなりました。
そのため、各地の士族たちも「西郷がやってダメだったんだから、もう俺たちがやっても無駄だ」と考えたようです。
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西南戦争以降、士族による反乱は起こりませんでした。
またひとつ課題を乗り越えた(踏み潰した)明治政府は、いよいよ中央集権化を確立させていくのでした。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「不平士族」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」「西南戦争」