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【幕末の皇族&公家】
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幕末の皇族たち
まずは皇族たちから見て参りましょう。
有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
天保6年(1835年)〜明治28年(1895年)
有栖川宮幟仁親王の第1王子。和宮の婚約者でした。長州系攘夷派として知られています。
「禁門の変」では、参内・他人とも面会・外出禁止処分を受けました。
公武合体政策をすすめた岩倉具視にも反感を持っていたのか、岩倉が新政府総裁になった慶応3年(1867年)には、朝議をボイコットしたことも。
戊辰戦争の際には、東征総督としてかつての婚約者・和宮がいる江戸城を攻める寸前までいきました。
その後も会津方面に転戦。廃藩置県後は福岡県令に任じられ、県政を執りました。
西南戦争にも従軍し、その勲功から西郷隆盛に次ぐ二番目の陸軍大将に任じられています。
草創期の陸軍首脳部として活躍。赤十字等社会事業にも尽くした生涯でした。
久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう・中川宮朝彦)
文政7年(1824年)〜明治24年(1891年)
伏見宮邦家親王第4王子。
将軍継嗣問題において、一橋慶喜を支持した「一橋派」です。
そのせいで【安政の大獄】で処罰されてしまいます(隠居永蟄居)。
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はじめは尊王攘夷派であったものの、その後方針を転換。
孝明天皇の信任が篤い人物で、そのため帝が嫌っていた長州藩を排除する謀略に一枚噛んだため、恨みを買いました。
明治維新以降は政治的な出番はなく、神職として生涯を終えています。
山階宮晃親王(やましなのみや あきらしんのう/勧修寺宮済範)
文化13年(1816年)〜明治31年(1898年)
伏見宮邦家親王の第一王子。
幼い頃出家するものの、元治元年(1864年)、徳川慶喜や孝明天皇に還俗を願い、「国事御用掛」政界に進出しました。
開明的であり、勝海舟をして「当時、開国の意味を本当にわかっていた唯一の皇族」と言わしめるほどです。
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明治維新後も政界で需要なポストを占めましたが、武官になることは固辞し続けました。
小松宮彰仁親王(仁和寺宮嘉彰)
弘化3年1月16日(1846年2月11日)〜明治36年(1903年)2月18日)
伏見宮邦家親王の第8王子。
戊辰戦争では軍事総裁に任ぜられ、「征夷大将軍」として進軍しました。
錦旗を掲げ、奥羽征討総督として官軍の指揮を執っています。
西南戦争でも旅団長として出征。
ヨーロッパの君主国貴族をならって、皇族が軍務に就くことを奨励し、自らその規範となった人物です。
北白川宮能久親王(輪王寺宮公現)
弘化4年(1847年)〜明治28年(1895年)
伏見宮邦家親王の第9王子で「朝敵」とされた皇族。
慶応3年(1867年)5月、江戸に下向して上野・寛永寺に入り、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承しました。慶応4年(1868年)には徳川慶喜の助命嘆願を行います。
寛永寺に立てこもった彰義隊に擁立され、上野戦争が勃発。
この寛永寺には天皇宸筆による額が掲げられ、かつ宮が住職であったため、篤姫は上野戦争に激怒します。
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上野戦争のあと、仙台藩に身を寄せ奥羽列藩同盟盟主に擁立されます。
こうした抗戦のため、明治維新直後は謹慎処分を受けました。
同母兄・小松宮彰仁親王は奥羽征討総督であり、戊辰戦争は兄弟同士の戦いでもあったのです。
明治時代はプロイセンの婦人と結婚したことも。
最期は台湾出生で陣没するという、波乱の生涯でした。
幾多の戦いに赴いた勇ましい皇族としても有名です。
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