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【伊達宗城】
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重要なポストに就いては、それをアッサリ投げ捨てて
やがて、家茂を将軍に推した井伊直弼が【桜田門外の変】で死去。
謹慎を言い渡された大名達も再び動き始めます。
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その頃は既に開国後でしたので、各地で外国人とのトラブルが起き始めていました。
とりわけ有名な【生麦事件】について、伊達宗城は「賠償金は薩摩に払わせるべき」としています。
その一方で薩摩藩主・島津久光とは協力して公武合体を計画。
たぶん斉彬の代から交流があったからなのでしょうけども「これはこれ、それはそれ」と考えるタイプだったんですかね。
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宗城の真意は、維新が始まってもわかりにくい。
一応、新政府側にはついているのですが、戊辰戦争には消極的で、参謀を辞任。
元を辿れば本家の仙台藩を責めたり攻めたりする気になれなかったのでしょうか。
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明治時代に入ってからは日清修好条規を結んだり、外国の来賓を接待するというそれなりに重要な役目をひきうけているのですけれども、これも短期間で自ら辞任しています。
そのとき仙台の慶邦は何を思っていた?
明治十四年(1881年)に伊達宗城は、63歳で世界周遊中のハワイ国王・カラカウアを接待しました。
カラカウアは最後のハワイ国王・リリウオカラニ女王の兄で、世界で一番最初に日本を訪れた国家元首ですので、宗城もやる気がなかったわけではないっぽいです。
ちなみにカラカウア国王からは気に入られたようで、このとき返礼として勲章を授与。
今も宇和島で保管されているそうですね。
宗徳の代(宗城存命中)に宇和島伊達家は伯爵家になりました。
しかし、これにより仙台伊達家を上回ったことは宗城としてビミョーだったかもしれません。
もちろん維新のときに味方だったか敵だったかという基準だからなのですけども。
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その辺について当時の仙台藩主・伊達慶邦のほうではどう思っていたのか? 宗城はどうだったのか?
という問題については日記があるわけでもないので、神のみぞ知るというところですが……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
伊達宗城/Wikipedia