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【孝明天皇】
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孝明天皇の意に沿う「一会桑」政権
長州藩が抜けた京都の政局は、大きく動きます。
禁門の変が成し遂げた影響は、長州藩の失墜だけではありません。
これほどの大きな政変が起こり、かつその中央にいたのが孝明天皇であったということは、幕府権威の低下をますます深刻化させるわけです。
分裂していた政局の重みは、京都側が増して江戸側が低下することに繋がりました。
そんな最中、孝明天皇が信頼を寄せたのは、以下の人物および勢力でした。
◆将軍後見職
一橋慶喜
◆会津藩主・京都守護職
松平容保
◆桑名藩主・京都所司代
松平定敬
この三者を「一会桑政権」とも呼びます。
しかし当時そう呼ばれていたわけではなく、あくまで後世に付けられた呼び名です。また、三者の意見が必ずしも一致していたわけではありません。
自己の権勢を高めるために、天皇を利用したい一橋慶喜。
天皇への忠誠心一筋で、政治的な駆け引きには疎い松平容保。
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兄である松平容保に付き従う松平定敬。
「同床異夢」と言いますか。三人の向いている方向は、必ずしも一致しないのです。
江戸の幕府閣僚のみならず、他藩も反発します。
孝明天皇があまりに松平容保贔屓が激しかったため、しらけムードすらあったようです。
この思いは他藩だけではなく、国元に残った会津藩首脳からも懸念が表明されています。
会津藩の京都守護職就任は財政的負担が大きく、危険視されていました。
そのため当初から藩首脳部から反対論が噴出。
容保が孝明天皇の寵愛を受け、プレッシャーがますます強まってゆく中、藩首脳部は解任と帰国すら願い出ます。
しかし、容保はそれを拒んだのでした。
シラけムードの「長州征討」
孝明天皇自身の意志を反映して、取り組むことになったのが長州への処分です。
しかし、世間からみると、処分は天皇の意志によるものというよりも、
【会津藩vs長州藩の私的な怨恨】
が由来とみなされたようです。
結果、「長州征討」は、やることがあまりに中途半端な不完全燃焼となってしまい、かえって幕府の権威を傷つけます。
「あのとき外国の支援を受けてでも、長州を叩き潰しておけば!」
「そもそも、やるんじゃなかった」
そんな声がありますが、いずれにせよ中途半端だったと散々な評価を受けております。
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なぜこんな不完全燃焼に終わったのか?
というと、やる気があったのが孝明天皇とその周囲だけであった、ということも大きいでしょう。
責任者の西郷隆盛は露骨にサボタージュしておりますが、薩摩藩はそのシラケムードの筆頭におりました。
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かつて薩摩藩は、会津藩と並んで「八月十八日の政変」や「禁門の変」を戦っております。
しかし「一会桑」から外されてしまい、政治的疎外感を味わっていました。
そんな薩摩藩が目を付けたのが「朝敵」認定されている長州藩です。
犬猿の仲同士で手を組み、目障りな「一会桑」打倒を目指そうというもの。
その先にあったのが【薩長同盟】でした。
薩長同盟の当初の目的は、
・第二次長州征討の際には、薩摩側が幕府側に圧力を与える
・長州が戦闘に勝つことがあれば、薩摩側が斡旋して朝廷に和議を持ちかける
・幕府側が撤退したら、薩摩の斡旋で工作を行い、朝敵認定取り消しを行う
・一会桑側が妨害してきたら、武力行使も辞さない
というもので、この時点で倒幕は視野に入っておりません。
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そしてこの「薩長同盟」が成立した慶応2年12月25日(1867年1月30日)。
孝明天皇は崩御しました。
死因については、毒殺説を含めてここでは取り上げません。
むしろ重要なのは、毒殺説がささやかれるほど、特定の勢力にとっては障害であったという点ではないでしょうか。
孝明天皇は、「一会桑」にとっては扇の要のようなものです。
結束は崩れ、薩長側の勝利へと情勢は向かってゆきます。
政治的な駆け引きは苦手とし、孝明天皇の深い信任を頼りにしてきた松平容保にとっては、引き返すことのできない地獄への道が開かれました。
不都合な史実
孝明天皇というのは、幕末史を語る上において、重要であるにも関わらず、不都合な存在です。
長州藩はじめ、尊王攘夷派は、自分たちは天皇のために働いていると掲げていました。
しかし、事実は逆です。
彼らの過激な行動は孝明天皇の意志からはほど遠いもので、かえって天皇の不興を買っておりました。
徳川慶喜の行動は徹頭徹尾自己利益への誘導であり、孝明天皇への忠義は感じられません。
松平容保は、胸をはって自分こそが孝明天皇への忠義を果たしたと言える資格があるかもしれません。
しかし、彼の天皇への忠義は、幕府の権威低下を招きました。
むろん、彼が意図したものではないでしょうが、徳川家への忠誠心第一であったはずが、どこかで何かを間違えた可能性は否めません。
孝明天皇へ忠義を尽くした結果、会津のみならず奥羽を巻き込む戦乱を招いたとも考えられでしょう。
確かに、彼にとって【義】を曲げることは考えられなかったことあります。
そしてその【義】がもたらした、主に東北の混乱と荒廃について、強く本人に追及するのは酷というもの。
彼の後半生は、慰霊と悔恨の日々であったのですから。
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