孝明天皇

孝明天皇/wikipediaより引用

幕末・維新

孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~謎に包まれた御意志

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孝明天皇
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実は長いようで短い150年

後世の我々が声高にしても詮無きことですが、幕末に置いて孝明天皇の意見は無視することが正解でした。

日本が窮地を切り抜けるためには、攘夷というその悲願は避けるしかありません。

幕末の政治史において尊ばれたはずの存在は、誤った思想ゆえに、障害となっておりました。

このあたりが、日本の近代史を学ぶうえで、最大の障害になっているのではないかと思うのです。

明治維新とは、天皇を掲げた戦いでありながら、先帝の意志は無視して突き進んでいる――そんな矛盾があります。

1868年から、長いようで短い152年が経過しました。

孝明天皇の意志を尊重すべきだったか?

よりよい国作りを尊重すべきだったか?

それぞれに正義のあった明治維新の残響は、未だ消えていない気がしてなりません。

 

加筆:宸翰(天皇直筆の書状)と御製(天皇が詠んだ和歌)

時は流れて、明治31年(1898年)。

かつて会津藩の家老であった山川浩は、肺結核が悪化し、死の床にありました。

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「健次郎、あどのごどは、にしに託した……松平家のこどを頼む。それと、なんとしても殿の汚名を……雪がねばなんねえ……あれを必ず世に出すんだ、頼んだぞ……」

「あんつぁま、あどのごとは任してくんつぇ」

浩は、弟の健次郎に、会津藩の名誉回復を託しつつ、息を引き取りました。

享年54。

山川浩/Wikipediaより引用

こうして、山川健次郎は兄の跡を継ぎ、主君・松平容大(かたはる)の世話をする家政顧問となりました。

そこで山川が直面したのが困窮です。

子爵の家とは名ばかりで、みすぼらしい暮らしぶり。援助しようにも、山川にも金はありません。

仮に金が入っても、みな会津復興のために使ってしまいました。戊辰戦争以降、金銭的に余裕があったことなど一度もありません。

山川家がいよいよ困った時に頼る手段はカンパです。

が、朝敵の家を庇う人などおらず、どうにもうまくいきません。

「なじょしたらよかんべ……」

そう悩んでいた山川の脳裏に、打開策がひらめきます。

山川は松平邸に、長州出身の陸軍中将・三浦梧楼を招きました。

三浦梧楼/Wikipediaより引用

三浦は長州藩出身ですが、藩閥政治には批判的。

かねてより、山川兄弟とは気が合う人物です。

「昔はいろいろなごどがありました。兄の浩は、会津が京都で何をしていだが、まどめておりやして」

「あの頃は、お互え、えろいろあったね。わしは、会津の君臣が一矢乱れず行動いちょったことに、感銘を受けちょったもんじゃ」

「んだなし。実は、先ほど申した本には、容保公が先帝から賜った宸翰(天皇直筆の書状)と御製(天皇が詠んだ和歌)を載せようと思っております」

「まさか、そねえなことが!」

三浦はそう言い、絶句しました。

「信じていただけねえのでしたら、ご覧になっていただきましょう」

山川は主家から、宸翰と御製を借りてきました。

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それこそ、容保が肌身離さず身につけてきた、竹筒の中身であったのです。

【宸翰】

堂上以下陳暴論不正之所置増長付痛心難堪
下内命之処速ニ領掌憂患掃攘朕存念貫徹之段
仝其方忠誠深感悦之餘右壱箱遣之者也
文久三年十月九日

堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり

【意訳】朝廷で、暴論を展開し、不正な処置を行い増長する者がおり、朕は胸を痛め、耐えがたいほどであった。密かに命をくだしたところ、速やかに処置して、心痛のもとを追い払ってくれた。朕の思いを実行してくれて感謝している。そなたの忠誠には感激した。この御製を感謝の気持ちに贈るものである
文久3年十月九日

【御製】

たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心をよろこひてよめる

・やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
・武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて

【意訳】この大変な時勢において、武士の忠誠を喜び詠んだ歌

・公家の柔らかい心も 武士の勇猛な心も 根は同じ相生の松のようなものです 枯れぬ松葉のように ともにこれからも栄えてゆきましょう
・武士と心を合わせることで 岩のように堅い状況も打破できるはずです 今味わっている辛い気持ちもいつかよい思い出となるでしょう

 

なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取れたのか

三浦は、長年の疑問が氷解しました。

『なぜ会津藩は君臣一糸乱れぬ行動を取っていたか』

その源がこの【宸翰】であり【御製】であると、理解したのです。

「山川さん、こりゃ……世におったさんようお願いできんか。これが出れば、大変なことになる! 会津の殿にゃあ、まことに気の毒なことをした。どうか、このとおりじゃ!」

「ほだごど言われましても。ところで、松平家の援助を政府に再三願っでおるのですが、どうにも芳しくねえのでして。朝敵に渡す金なぞねえのは、わがるのですが、どうにかならんもんでしょうか」

「松平家が大変なこたぁようわかった。わしから上に、よう伝えちょくる!」

「ありがてえごとです」

三浦はこのことを、土佐藩出身の宮内大臣・田中光顕、政府中枢に相談しました。そして大変なことになりました。

「そねえなんを、世に出したらならん!」

かくして要求は通り、松平家のために政府から3万円が下賜されることになったのでした。

しかし山川の心境は複雑だったことでしょう。

山川健次郎/Wikipediaより引用

病床にあった松平容保は、この宸翰と御製を山川浩に見せ、必ずや世に出して欲しいと訴えていたからです。

山川兄弟は、その容保の願いを叶えるため、活動してきました。

しかし、背に腹は代えられぬ。

いつかきっと、この宸翰と御製は世に出ることでしょう。その日まで、耐え抜くことにしたのです。

 

長州を憎み会津の忠義を信じていた

ではなぜ、政府は山川の要求を呑んだのでしょうか。

そこには【孝明天皇が長州藩を憎み、会津藩の忠義を信じていた】と書いてあるからです。

それまで散々、天皇のために尽くしたのは長州藩であり、会津藩こそ天皇に楯突いた朝敵であると標榜してきた以上、それをひっくり返されるのは困ることでした。

しかし、明治37年(1904年)元会津藩士・北原雅長(神保修理の弟)が『七年史』を刊行。

その中で宸翰と御製の内容を発表します。

北原は「不敬罪」(天皇を侮辱した罪)で拘留されてしまいました。

北原雅長/Wikipediaより引用

しかし明治39年(1906年)。

『孝明天皇紀』が出版され、ここでも宸翰が明るみに出ます。

「こうなったら、もうよかんべ」

山川も、もはや隠し通す意味がないとして、兄の著作に大幅加筆した上で明治44年(1911年)、『京都守護職始末』を世に送り出したのでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
家近良樹『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)』(→amazon
『国史大辞典』
ほか

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