桜田門外の変

『桜田門外の変』を描いた月岡芳年の作品/wikipediaより引用

幕末・維新

前代未聞の暗殺事件「桜田門外の変」水戸だけでなく薩摩も密接に関わっていた

2025/03/02

安政7年(1860年)3月3日、幕末最大のテロとして知られる桜田門外の変が勃発しました。

政治のトップが首を取られたというこの大事件。

一般的には実行者の「水戸藩」や、被害者の「井伊直弼」を中心に語られがちです。

実際に彼らを中心とした事件であり、そもそもは【安政の大獄】を経てから起きたものですが、意外なところでは薩摩藩も無縁ではありませんでした。

有村兄弟こと、有村雄助と有村次左衛門です。

彼らは水戸浪士と共に、井伊直弼の襲撃だけではなく、大規模な兵を伴った挙兵も計画しており、実際に井伊直弼の首を取ったのも有村兄弟とされます。

幕府の権威を失墜させたこの一大事件、水戸藩と井伊直弼だけではなく、もう少し広い視点から振り返ってみましょう。

井伊直弼/wikipediaより引用

 


井伊家の行列は60名 襲撃者は18名

安政7年3月3日(1860年3月24日)。

既に3月(現在の暦だと3月後半)だというのに、江戸は珍しく雪が降っておりました。

関東特有の湿っぽい牡丹雪がちらつく、冷え込む朝。

この日は雛祭りで、多くの諸侯が登城することになっています。

彦根藩の門から出てきた井伊直弼を載せたお供たちは、防寒具を着ていました。

刀の柄や鞘にも袋がかかっています。

現在の桜田門

襲撃者たちは、その様子を見てほくそ笑んだことでしょう。

防寒具は反応を鈍らせます。

井伊家の行列は60名。対する襲撃者は18名。

数では劣るものの、悪天候が味方になりました。

 


計画決行

変わらず雪が降り続く中、歴史に残る襲撃事件が、始まりました。

駕籠訴(幕府の有力者へ直訴すること)を装った刺客が、列の先頭に襲いかかり、まずは二人を斬殺。

「いったい何が起きている?」

井伊家の一行は、雪に遮られて前が見えません。

ピストルの銃声が鳴り響いたのが次の合図でした。

異変に気づいた井伊家の者は、刀を抜き、敵を迎え撃ちました。

しかし、柄や鞘に袋を被せていたことが仇となって、なかなか抜けません。

籠の中で、井伊直弼は激痛に苦しんでいました。

銃弾は腰を撃ち抜き、もはや刀を抜いて臨戦態勢を取ることもできません。

それでも、何人かの彦根藩士は勇敢に戦いました。

二刀流の剣豪として知られた永田太郎兵衛。

そして河西忠左衛門らは力尽きるまで奮戦。

やがて駕籠を守る者はいなくなりました。

 

駕籠の外へ

丸裸になった駕籠。

襲撃者たちは次から次へと駕籠に刀を突き刺します。

髷をつかまれた井伊は、ついに駕籠の外へ引きずり出されました。

「おのれッ……」

それでも雪の上を這いずって、その場を逃れようとする井伊。

そのときでした。

「キィエエエエエエエーッ!」

薩摩は薬丸自顕流特有の「猿叫」が響き渡ります。

有村次左衛門/Wikipediaより引用

刹那、井伊の首は、雪の上を転がっておりました。

かくして、桜田門外の変――成就。

井伊の首を取った男、それは薩摩藩士・有村次左衛門でした。

 


「精忠組」の計画

遡ること2年前の安政5年(1858年)。

薩摩藩は煮え立つような状況でした。

黒船来航の後、薩摩藩内では水戸藩、長州藩と同じく、「日本をこのままにしておいてはいけない!」と立ち上がる若者が出てきています。

大久保利通や西郷隆盛をリーダーとしてまとまった彼らは「精忠組」と呼ばれました。

西郷隆盛と大久保利通/wikipediaより引用

若者ゆえに思いは熱い。

熱情は過激さへと向かいやすく、ただ憂国の志を語っているだけでは済まなくなってしまいます。

彼らの怒りの矛先は「安政の大獄」を起こした井伊直弼に向かいました。

むろん殺すつもりでした。

 

弾圧よりも懐柔

「井伊大老の暗殺計画とな?」

暴走を始めた精忠組の「井伊暗殺計画」は、幸か不幸か藩の上層部に届きました。

計画の骨子はこうです。

志を同じくする水戸藩士たちと手を組み、井伊直弼を殺害。その首を掲げながら3,000の兵を率いて上洛、天皇の協力を得て幕府に政治改革を迫る――というものです。

なんと危うく杜撰な目論見なのか。

このまま薩摩の若者たちが暴走しては藩にも害が及んでしまう……と、ここで絶妙な手を繰り出したのが島津久光です。

若き藩主・島津忠義の父であり「国父様」と呼ばれていた実力者。

お由羅騒動の由羅の息子であり、共に島津斉興を父とする島津斉彬の弟でもありますね。

島津久光/wikipediaより引用

久光が絶妙だったのは、単純に弾圧しなかったことでしょう。

彼は若き精忠組の計画や行動に理解を示しつつ、融和策でもってコトに臨みました。

「その志は理解する。いつか藩をあげて、お前たちとともに行動をすることも約束する。ただ、最善のタイミングをはかる必要がある。それまで決して暴走してはならない。慌てるなよ」

と、猛犬に首輪を付けるように、巧みに精忠組をなだめました。

そして、藩の外に出ていた者を薩摩まで呼び返したのです。

井伊を斬ると熱くなっていた精忠組も冷静になり、襲撃計画をやめて次々と薩摩に戻りました。

しかし、帰国を良しとしなかった者もおりました。

有村雄助・次左衛門兄弟です。

 

大老の首

薩摩で有村と言えば、有村俊斎(海江田信義)があまりに有名です。

有村俊斎(海江田信義)/wikipediaより引用

実際この2人、有村雄助・次左衛門兄弟は、俊斎の実弟でした。

次左衛門は、安政6年(1859年)の秋、帰国していた長兄・俊斎(のちの海江田信義)と母に、「今年はもう帰れない」と書状を送っています。

月日は進み、再び安政7年(1860年)へ。

井伊直弼の暗殺計画は、水戸浪士や有村兄弟の間で秘密裏に進行。

いよいよ3月に入って冒頭のとおりに実行され、井伊直弼の首は有村次左衛門の手によって落とされたのでした(有村雄助は襲撃自体には参加せず)。

井伊の首を刀の切っ先に突き刺し、勝ちどきを上げる次左衛門。

その場を立ち去ろうとすると

「待て……」

倒れていた彦根藩士・小河原秀之丞が息を吹き返しました。

そして首を取り返すため、有村の後頭部を切りつけます。

小河原は、即座に、水戸藩士・広岡子之次郎らによって滅多斬りにされました。

後頭部を切られた有村は、自らの命も「もはやこれまで」と悟りました。

 

次左衛門の死

有村は腹を切るため、雪の上に胡座をかきました。

小刀を手にして切腹しようとしたのです。

が、皮の稽古胴を着用していたため、思うように出来ません。刀を地面にさして寄りかかって自決しようとしたものの、これも失敗しました。

介錯をしてくれとジェスチャーで頼むものの、誰もそんなことをする余裕はありません。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用

有村は死ぬことができず、水のかわりに雪を手に取ると口に押し込みます。

首を抱え、体を引きずるようにしてその場を離れました。

「誰か、介錯を頼みもす……」

これが有村最期の言葉でした。享年22。

なお、襲撃に参加した水戸浪士17名+薩摩浪士(有村次左衛門)の1名あわせて18名は、ほぼ全員の16名が事件中かその直後に亡くなっています。

襲撃で傷を負ったり、自刃したり、斬首の刑になったのでした(逃亡した2名は天寿を全う)。

 

雄助は切腹

井伊直弼の死は、極秘事項として隠蔽されました。

大老解任と“病死”の公式発表まで必要だった期間は二ヶ月。

とはいえ、事件は誰の目にも明らかです。

登城する大名たち、町人たち、彼らは血に染まった現場を見ているわけで、隠蔽工作を行ったところで、とても隠しきれるものではありません。

町人たちは川柳を詠んで、その死を茶化すほどでした。

井伊掃部(=いい鴨)と 雪の寒さに 首をしめ

急報を聞いた大久保利通は、島津久光に「出兵の好機!」と進言します。

しかし、当の久光は激怒していました。

「有村兄弟は、とんでもない不忠不孝である」

久光自身、兄・斉彬と対立した井伊直弼に好感情はありません。

しかし、ここまでやれとは言ってないし、思ってもいない。

必死になって精忠組の暴走を抑えたのに、何を勝手なことをしでかしてくれたのか――そう怒り心頭に発して当然のことでしょう。

久光の藩士コントロールは徹底しています。

井伊の死を受けて、水戸藩士と共に京都を目指していた有村雄助らは、伊勢・四日市で待ち伏せていた薩摩藩士によって捕縛。

水戸藩士は江戸に送られ、有村雄助は伏見の薩摩藩邸、そして薩摩へと連行されます。

薩摩の藩庁があった鶴丸城(鹿児島城)

そして万延元年(1860年)、幕府の手は薩摩にまで及びました。

大久保ら必死の助命嘆願も虚しく、有村雄助は藩命により切腹させられるのです。

享年26。

弟二人を同時に失った兄・俊斎も辛かったことでしょうが、手紙を貰った母もまた辛し。

薩摩から見た「桜田門外の変」とは、藩にとっても望んではいない最悪の結果。

ゆえに有村兄弟の名前を聞く機会も少ないのかもしれません。


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【参考文献】
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon
半藤一利『幕末史』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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