山本若麟 『蘭亭曲水図』/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

雅で華麗な平安時代の行事「曲水の宴」起源は中国の「曲水流觴」だった

2025/03/02

政争が続き、殺伐とした日常を描いた大河ドラマ『光る君へ』。

結局、平安時代も全く優雅じゃないよな……そんな印象をお持ちだった方も多いと思われますが、第34話では「これぞ貴族!」という場面が流されました。

【曲水の宴】です。

史実では、寛弘4年(1007年)3月3日、藤原道長により土御門邸で開催されたことが記録されているこの行事。

庭に作られた人工の川の流れにのって鴨の人形が流れ、貴族たちは酒をたしなみながら詩も詠む――まさに日本の美が凝縮されていて、目を奪われた方も少なくないでしょう。

しかし、この行事は日本が発祥ではありません。

同年9月からNHKで『三国志 秘密の皇帝』という長編ドラマが放送されていましたが、このドラマでも曹操主催による「曲水の宴」の場面があります。

元々は中国で、古来より愛されてきた伝統行事だったのです。

ただし『三国志 秘密の皇帝』ではこの行事で暗殺をめぐる攻防が繰り広げられ、いずれのドラマにしても、道長と曹操という両国の偉大な権力者たちの違いが浮かび上がる、象徴的なシーンにもなっています。

さほどに重要な曲水の宴とはいったい何なのか?

起源はどこにあるのか?

史実面から振り返ってみましょう。

 


曲水流觴:水辺で楽しむ中国古代の行事

曲がりくねった水に觴(しょう・酒器)を流す――そんな意味から中国では「曲水流觴(きょくすいりゅうしょう)」と呼ばれてきたこの行事。

数ある伝統行事の中でも最古といえるほどの歴史を持つだけに、起源も諸説あり、少なくとも周代には存在したとされています。

中国最古の詩集であり、孔子が編纂したとされる『詩経』にも、流れる水のそばで男女が語り合い、戯れる様が収録されているのです。

漢代になると、この行事は三月の上巳に行うものとされてゆきました。

水辺に集い、身を清め、穢れを払う禊をする。そのついでに飲食を楽しむようになっていったのです。

ここまでは自然発生的で、素朴な行事であった時代といえます。

川べりで春の訪れを喜ぶ人々が語りあう。

体を洗い、穢れを落とす禊を済ませる。

女子の場合、禊を済ませることで不妊を治療する目的が重視されました。ゆえに、この行事は後に女性性と結び付けられていったとされます。

『光る君へ』での道長は、娘であり一条天皇の中宮である彰子の不妊に悩み、それを解消する意味もこめて開催。

日本ではこの節句に人形を流す「流し雛」が始まり、やがて雛人形を飾り、女子の幸せな結婚を願う「雛祭り」へと進化してゆきます。

 


伝説の『蘭亭序』が生まれた

東晋の永和9年(353年)、会稽山麓の名勝・蘭亭にて、伝説の「曲水の宴」が開催されました。

有力貴族の一人であり、書の名人である王羲之が、名士42名を招いて詩を詠み、この宴を楽しんだのです。

そして、ここで詠んだ詩37篇がまとめられました。

自分の順番で詩が詠めないと、罰として酒をクイっと飲み干さねばならない――そんなルールがあったので、中には無茶苦茶な作品もあり「残さないでくれ」と収録を断るようなこともあったとか。

王羲之もまた酔いに任せつつ、詩集の序文を書きました。

わずか「28行・324字」で描かれたその序文は、あまりに美しい文字でした。

酔いが覚めたあと、王羲之は清書しようと考えましたが、どうしても草稿以上の出来栄えにならない。

かくして草稿のまま残されることとなりました。

王羲之による蘭亭序/wikipediaより引用

王羲之は書道史において最も重要な、伝説的な存在といえます。

紙と筆による記載が普及してゆく過程で「書道」を編み出した存在とされたからです。

それほどの人物が、酔いに任せて走らせた字がこの上なく美しい。これはまさに天意が降り立ったような神秘的な出来事として記憶されました。

かな書道が光る『光る君へ』「三跡」行成が生きた時代

続きを見る

 

他の文化は廃れても曲水の宴は残された

時代が降り、中国史上最大の名君とされる唐太宗の時代。

書を愛する太宗は王羲之の作品を集めました。

所有者を騙すようなことをしてまで『蘭亭序』も入手し、自らの墓である昭陵に納めさせます。

結果、『蘭亭序』はこの地上から消えたも同然。現在、王羲之真筆の作品は無く、いま残されているものは模写となります。

しかし、伝説的な書が誕生した「曲水の宴」は、文化の精髄として伝えられてきました。

これは実に重要なことと言えるでしょう。

なにせ中国は、漢族以外の王朝が治めることもあり、島国の日本よりも文化の隆盛が激しい傾向がある。

『光る君へ』に出てきた打毱、貴族の遊びとしておなじみの蹴鞠は、中国由来ながら歴史の中に消えてしまいました。

蹴鞠はあまりに流行しすぎたため、厳格な明太祖が綱紀粛正のため禁止令を出したほどです。

満洲族の清朝が成立すると、これに習い蹴鞠はまたもや禁止。

代わりに満洲族が好むスケートが導入されました。

曲水の宴はどうか?

というと、文化振興のためかこれが残されます。

中国の皇帝は文化を重んじます。たとえば清の乾隆帝は書を好み、名品があると自らの印を押しながら絶賛したほどでした。

そんな乾隆帝は、王羲之とゆかりの深いこの行事をむしろ愛でたのです。

山本若麟 『蘭亭曲水図』/wikipediaより引用

日本では奈良時代に、王羲之が楽しんだ魏晋以降の形式で伝わりました。

それがいつしか朝廷の行事として定着してゆき、『万葉集』はじめ多くの歌集にこの宴で詠んだ作品が収録されています。

時代が降ると朝廷の外にも広がり、文化の象徴として武家が開催することもあったほど。

現在でも太宰府天満宮や各地の神社で開催され、行事としてすっかり根付いたといえます。

 


権威の象徴となり人工的な流れを作るように

古代、水辺に集まる人々は素朴でした。

『詩経』で詠まれる光景は、男女が美しい川の流れを見たか? 楽しんでいるか? と語らう純朴なものでした。

漢代にせよ、あくまで飲酒は副次的なものであり、水辺で身を清める禊こそが主目的です。

それが魏晋以降、酒を飲むこと、詩を詠じることが混ざってゆき、権威的でパリピが大集合するセレブの宴と化してゆきます。

会場の設営も大変です。

王羲之のように絶景で知られる会稽山麓の蘭亭に行ければよいけれども、現実には無理がある。

自然の流れを利用するとなると、よいタイミングで盃は流れないかもしれない。

詩を詠むゲームと共に楽しまれるようになると、ある程度は制御できる水流が望まれるようになります。

そこで、人工的な流れを作って開かれる行事に変化してゆきました。

中国・宋代の例を見てみましょう。

当時は、石を掘り抜き、クネクネとした流れを再現したい、そんな狙いが出ています。

桂海碑林博物館に残された曲水流觴の跡/wikipediaより引用

ドラマ『三国志 皇帝の秘密』でも、このブロックを掘ったような流れが出てきます。

屋外でゆったりとした形式で楽しむことも、もちろんありました。

あるいは以下の画像は韓国となりますが、

慶州の鮑石亭(韓国)/wikipediaより引用

石を掘るのではなく、ブロックを置き、流れを作る発想が見て取れます。

『光る君へ』でも、同局の別番組『100カメ』でその苦労が放送されていましたように、スタジオ内で宴を再現したのですから、それはもう大変なこと。

日本らしさも随所に見られました。

例えば宴で用いる酒器は「羽觴」(うしょう・羽の生えた盃)と呼ばれるものです。

ドラマ内では、京都の鴨川から連想して、鴨を模した愛くるしい羽觴の姿になっていました。

日本での曲水の宴/wikipediaより引用

中国、韓国、日本と細やかな差はあれ、共通点があります。

曲水の宴を開催するには広い面積や技術が必要――つまり相応の権力者でなければ開催できないということです。

 

権威と文化の象徴として

『光る君へ』と『三国志 秘密の皇帝』で曲水の宴シーンを再現するにあたり、両者にはいくつかの共通点もあります。

本来、これほどの行事となれば為政者の権威と結びつくため、朝廷主催で行うものとなります。

中国ならば皇帝、日本ならば天皇ですね。

権威の象徴であり、財産がなければ開催できない、そんな行事でしたが、時を経るにつれその慣習も崩れてゆきます。

藤原道長にせよ、曹操にせよ、主をさしおいて開催している。

主君をも上回る権威を家臣が得ている、そんな構造が浮かんでくるのです。

しかし同時にそれは、文化の促進にも繋がりました。

道長自身は即興で和歌を詠む側にはおらず、眺めて鑑賞する側にいます。

彼の目線の先には、赤染衛門の夫であり、学者として名高い大江匡衡はじめ、才知あふれる参加者が居並んでいました。

この作品では、道長が『源氏物語』はじめ、さまざまな文化の庇護者として振る舞う様が描かれています。曲水の宴もまたその象徴と言えるでしょう。

中国では、曹操だけでなく息子の曹丕や曹植も詩人として知られ「三曹」と称されます。

『光る君へ』に登場する平安貴族たちも、『文選』で彼らの作品を読んでいたはず。

曹操は文化の庇護者でもあり、「建安七子」と称される文人も厚遇し、中国文学を前進させているのです。

道長は宴開催の願いとして、娘・中宮彰子の懐妊をあげていました。

曹操も、曹節ら娘たちを後漢献帝の後宮にいれています。

両者ともに朝廷の権利を侵害し、外戚として権力を把握しようとしていたわけです。

曹操はそのことを政敵から非難される一方、道長はむしろ人心掌握に成功しました。

天皇の外戚として権威を振るうことに、周囲の平安貴族は何の疑念も抱いていないように思えるのです。

つまり日中における権力に対する態度の差が、ドラマで浮かび上がってくる――そんな興味深い現象が起きていました。

むろん『光る君へ』と『三国志 秘密の皇帝』には大きな違いがあります。

『光る君へ』では、終始穏やかで楽しげな様子が描かれました。この宴で重要な展開は、彰子が公卿の会話を見聞きし、人の心について学んだところにあります。

『三国志 秘密の皇帝』では、曹操が猜疑心を募らせてゆきます。曲水の宴で流れる酒に毒を仕込めば、断りきれないのでは? そんなサスペンス展開がみどころでした。

あくまで文官であり、誰かを排除しようにもせいぜいが呪詛止まりである道長。

一方、強硬手段も取れる曹操。

そんな両者の違いが出ていたのです。

 

歴史劇における行事再現の重要性

『光る君へ』において「曲水の宴」が放映された後日、前述の通り、NHKは別番組『100カメ』において、その再現の困難さを紹介していました。

舞台が平安中期である『光る君へ』に大規模な合戦シーンはない。ゆえに絵面が地味となり、派手さに欠けるため単調になるのでは?

番組が始まる前はそんな懸念も囁かれましたが、作り手にとっては「いやいや、そんなことありません!」となる話でしょう。

大河初の平安中期となると、せいぜい『平清盛』あたりぐらいしか道具の使い回しができず、一から作る量が膨大になります。

打毱や御嶽参も、体を張った大変な撮影であったことが伺えます

そして、この「曲水の宴」です。

セット内に流れる水をどう再現するのか?

それがどれほど大変であったことか?

屋内で、撮影が楽なシチュエーションだけで話を展開させればよいかというと、そうではありません。

こうした伝統的な行事を出すことは、文化をアピールする意味もあります。

例えば『光る君へ』では、序盤に打毱の場面がありました。

中国から日本に伝わったにも関わらず、本国では消えてしまった伝統です。それが再現されたことは、驚きをもって受け止められました。

ドラマにより日本文化の継承が伝わったのですから、素晴らしいことではありませんか。

近年はVODが普及し、韓流や華流の時代劇を見る機会も増えています。

東アジアの時代劇同士で見比べることで、新たに見出せる特徴も多々ある。

2024年は日中における曲水の宴を比較できる、貴重な機会が実現しました。

これは今後の大河ドラマや時代劇の未来を示す画期的なことではないでしょうか。


あわせて読みたい関連記事

文房四宝
「文房四宝」とは?紫式部や清少納言の執筆活動に欠かせない重要文具

続きを見る

本当は怖い平安京のリアル
本当は怖い平安京のリアル|疫病・干ばつ・洪水で死体転がり孤児うろつき

続きを見る

『光る君へ』と百人一首
『光る君へ』の理解に欠かせない「百人一首」に選ばれた主要キャラの和歌

続きを見る

平安貴族の暴力事情|武闘派貴族・藤原隆家と花山法皇は二度もバトルしていた

続きを見る

平安貴族と輸入品
輸入品無しではやっていけない平安貴族|いったいどんな唐物が重宝された?

続きを見る

【参考文献】
東京国立博物館・台東区書道博物館『王羲之と蘭亭序』

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

-飛鳥・奈良・平安
-

右クリックのご使用はできません
目次