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【余市のリンゴ緋の衣】
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配られたリンゴの苗
余市は、地理的には恵まれていました。
港町・小樽に近く、海もあれば、余市川も流れています。
とはいえ、入植当時は原野です。それを整備するのは並大抵の苦労ではありません。
それでも彼らはくじけませんでした。
「俺たちが立派に開拓すっこどで、少しでも殿の罪が軽くなんなら、それが忠義心つうもんだべ」
彼らは必死で開拓を続けます。
後進の育成のため、閉鎖された藩校「日新館」にならった「日進館」を開きました。教育を忘れることなく、新天地で暮らし始めたのです。
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熊虎は、新天地で育つことになった若い世代にあたりました。
明治8年(1875年)、北海道開拓使が果物の苗木を余市の入植者に配布しました。
アメリカから輸入されたもので、サクランボの他に洋梨やスモモなど。リンゴも含まれていました。
どんな実がなるのかすらわからないまま、彼らは栽培を始めます。
あえなく枯れてしまう苗も、たくさんありました。
栽培マニュアルもろくにないまま、刀を農具に持ち替えた旧会津藩士たちは、慣れぬどころか未知の果物栽培に挑んだのです。
日本古来のリンゴは「和リンゴ」と呼ばれるもので、ミカンくらいの大きさです。
酸味が強く、西洋リンゴの普及によって廃れています。たまに入手できることがありますが、確かに味では劣るのですね。
ちなみに滋賀県・彦根市では、和リンゴの「彦根リンゴ」復活計画が進んでいるようですが……。
旧会津藩士たちは「リンゴ侍」と揶揄されつつ、何度も失敗を繰り返しながらリンゴ栽培に挑戦しました。
会津の魂のように赤い実が
余市入植から4年目となる明治12年(1879年)。
赤羽源八の家にある西洋リンゴの木に、真っ赤な実がなりました。
リンゴの品種名は「19号」でした。
「このリンゴは会津の誇りだべ。名前は“緋の衣”(ひのころも)だ」
余市で実ったリンゴには、そう名前がつけられました。
緋の衣――それは会津藩主・松平容保の陣羽織。孝明天皇から賜った【緋色の生地】で作ったものです。
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文久3年(1863年)、容保が孝明天皇の御前で展覧馬揃えを行った際に着用しておりました。
いわば栄光の色です。
もうひとつ。
会津戦争終結の際、西軍に城を明け渡す際に敷かれた、緋の毛氈「泣血氈」のことを指します。
会津藩士は、この毛氈を小さく切り、無念を忘れまいと保管していたのです。
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北の大地に実った赤い実は、まさに陣羽織と「泣血氈」の色をしていました。
栄光と、苦難の歴史の色。
会津の思いがこめられておりました。
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