余市で生まれたリンゴ「緋の衣」

幕末・維新

敗者の会津藩士が極寒の北海道余市へ 開拓リンゴ「緋の衣」が誕生

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余市のリンゴ緋の衣
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リンゴの町となった余市に、竹鶴政孝が注目

以降、余市ではリンゴが特産品となってゆきます。

作付面積も、収穫量も増加し、札幌や小樽から大勢の商人が買い付けにやって来ました。

「国光」、「紅玉」も栽培も増え、この3種類が余市リンゴの主要品種となります。

「緋の衣」は味がよく、東京やロシアでまで販売されたほど。

当時最高級の、味のよいリンゴとして、大人気を博しました。

余市で生まれたリンゴ緋の衣

品質に並々ならぬコダワリを持つ竹鶴政孝。

その竹鶴も納得できる、味のよいリンゴの生産地こそ余市でした。

熊虎は、リンゴ生産を辞めて鰊(にしん)漁をしていた設定です。

確かに余市では、鰊漁が盛んであった時期もありました。

しかし、竹鶴政孝が余市に移住してきた昭和前期には不漁が続き、翳りが見えるようになっていたのです。

旧猪俣安之丞邸(鰊漁で建てられた「鰊御殿」のひとつ)/photo by 山本昂左衛門 wikipediaより引用

鰊漁に代わる新産業――。

リンゴを持ち込めば加工してくれるというニッカウヰスキーの前身「大日本果汁」は、こうした余市を背景として創設された会社でした。

 

「緋の衣」の衰退と、復活

大人気品種であった「緋の衣」ですが、徐々に廃れてしまいます。

特に、品種改良が進んだ昭和20年代以降、他の品種におされて栽培が下火となり、姿を消してゆくのです。

余市の「吉田観光農園」だけが、栽培を続けていました。

そんな「緋の衣」が脚光を浴びたのは、平成になってからのことです。

平成12年(2000年)。

会津のリンゴ農家の白井康友さんは、ある雑誌記事に目を留めました。

余市に移住した、会津藩士の苦労と「緋の衣」の記述。

会津ゆかりのリンゴに興味をもった白井さんは、早速「吉田観光農園」を訪れ、苗木を分けてもらいます。

そしてそれを会津に持ち帰り、縁の地で栽培を開始したのです。

会津藩士の歴史を埋もれさせまい――そんな気持ちを抱いての取り組みでした。

苦難の歴史を越えて、赤く輝くリンゴの実。

作中で思い入れたっぷりに、熊虎らが会津への思いを語るのも、理解できる気がします。

現在、「緋の衣」は余市、会津で栽培されています。

実の大きさや熟度が揃いにくいため、ジュースや菓子といった加工品の利用されており、一部はネット通販でも購入できます。

下記にリストアップしましたので、皆様もよろしければどうぞ。

◆復古(レトロ)三兄弟リンゴジュース(100%ストレート)(9本セット)→link

◆ニッカアップルワイン(→link)※現在は青森県弘前市で製造しています

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考】
国史大辞典ほか

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