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【余市のリンゴ緋の衣】
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会津の魂のように赤い実が
余市入植から4年目となる明治12年(1879年)。
赤羽源八の家にある西洋リンゴの木に、真っ赤な実がなりました。
リンゴの品種名は「19号」でした。
「このリンゴは会津の誇りだべ。名前は“緋の衣”(ひのころも)だ」
余市で実ったリンゴには、そう名前がつけられました。
緋の衣――それは会津藩主・松平容保の陣羽織。孝明天皇から賜った【緋色の生地】で作ったものです。
文久3年(1863年)、容保が孝明天皇の御前で展覧馬揃えを行った際に着用しておりました。
いわば栄光の色です。
もうひとつ。
会津戦争終結の際、西軍に城を明け渡す際に敷かれた、緋の毛氈「泣血氈」のことを指します。
会津藩士は、この毛氈を小さく切り、無念を忘れまいと保管していたのです。
北の大地に実った赤い実は、まさに陣羽織と「泣血氈」の色をしていました。
栄光と、苦難の歴史の色。
会津の思いがこめられておりました。
リンゴの町となった余市に、竹鶴政孝が注目
以降、余市ではリンゴが特産品となってゆきます。
作付面積も、収穫量も増加し、札幌や小樽から大勢の商人が買い付けにやって来ました。
「国光」、「紅玉」も栽培も増え、この3種類が余市リンゴの主要品種となります。
「緋の衣」は味がよく、東京やロシアでまで販売されたほど。
当時最高級の、味のよいリンゴとして、大人気を博しました。
品質に並々ならぬコダワリを持つ竹鶴政孝。
その竹鶴も納得できる、味のよいリンゴの生産地こそ余市でした。
熊虎は、リンゴ生産を辞めて鰊(にしん)漁をしていた設定です。
確かに余市では、鰊漁が盛んであった時期もありました。
しかし、竹鶴政孝が余市に移住してきた昭和前期には不漁が続き、翳りが見えるようになっていたのです。
鰊漁に代わる新産業――。
リンゴを持ち込めば加工してくれるというニッカウヰスキーの前身「大日本果汁」は、こうした余市を背景として創設された会社でした。
「緋の衣」の衰退と、復活
大人気品種であった「緋の衣」ですが、徐々に廃れてしまいます。
特に、品種改良が進んだ昭和20年代以降、他の品種におされて栽培が下火となり、姿を消してゆくのです。
余市の「吉田観光農園」だけが、栽培を続けていました。
そんな「緋の衣」が脚光を浴びたのは、平成になってからのことです。
平成12年(2000年)。
会津のリンゴ農家の白井康友さんは、ある雑誌記事に目を留めました。
余市に移住した、会津藩士の苦労と「緋の衣」の記述。
会津ゆかりのリンゴに興味をもった白井さんは、早速「吉田観光農園」を訪れ、苗木を分けてもらいます。
そしてそれを会津に持ち帰り、縁の地で栽培を開始したのです。
会津藩士の歴史を埋もれさせまい――そんな気持ちを抱いての取り組みでした。
苦難の歴史を越えて、赤く輝くリンゴの実。
作中で思い入れたっぷりに、熊虎らが会津への思いを語るのも、理解できる気がします。
現在、「緋の衣」は余市、会津で栽培されています。
実の大きさや熟度が揃いにくいため、ジュースや菓子といった加工品の利用されており、一部はネット通販でも購入できます。
下記にリストアップしましたので、皆様もよろしければどうぞ。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
国史大辞典ほか