俗論派

当初長州藩の政庁があった萩城跡

幕末・維新

長州藩の中にもいた負け組「俗論派」とは?歴史に埋もれた陰の敗者

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藩主にも責任はあったのでは? なぜ坪井一人に?

ただし、この分類には不自然な点があります。

村田の藩政改革は、坪井によって潰されそうになったとされていますが、彼にそこまでの力があったかどうかハッキリしません。

むしろ批判の矛先は、村田の改革案を採用しなかった藩主・毛利敬親ら上層部に向けられてもよいはずです。

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しかし、それだと「上は絶対」の武士として憚られたのかもしれません。

いわば坪井は、スケープゴートのように憎まれた部分もあり、さらには藩による恩賞が手厚かったことも、憎悪を集める要因となったと思われます。

正直、彼が狭量な政治家であったとは言いきれません。

村田の改革頓挫後、長州藩は藩主以下、改革に取り組みを続行しています。

藩校明倫館の再興や、神器陣演習観覧を続け、長州藩に文武を隆盛させるべく、取り組んでいました。

そこで坪井は藩主を支え、熱心に取り組んでいたのです。

憎悪を買った彼への恩賞も、こうした熱心な取り組みに対する報酬と考えられるでしょう。

なんだか西郷どんで西郷隆盛島津斉彬に邪魔者扱いされていた調所広郷を彷彿とさせますね。

調所は、島津斉興のもとで藩政改革を大成功へと導きながら、不遇な最期を迎えさせられました。

詳しくは、以下の記事をご覧ください。

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「俗論派」の悲劇と抹消

坪井は、俗な論を唱える狭量な男ではなく、藩のために働いた男でした。

幕末動乱の時期、過激な尊皇攘夷派を警戒したことも、間違っていたとは言い切れません。

なにせ「報勅攘夷」を掲げた尊皇攘夷派の暴走は、過激なものでした。

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彼らの暴走により、長州藩は追い込まれてゆきます。

次々に起こされる長州絡みの事件の数々。

偽勅による過激な攘夷はついに孝明天皇の憎しみを買い、外国からも睨まれました。

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しかし文久3年(1863年)。

坪井は藩内の尊王攘夷派によって捕らわれ、萩の野山獄で処刑されてしまいます。

享年64。

こうして敗者となった坪井や、椋梨藤太のような人物は、「俗論派」とまとめられることとなりました。

「正義派」と「俗論派」の対立は、さらなる悲劇も巻き起こしています。

奇兵隊の総管を務めた赤禰武人(あかね たけと)は、二派の融和を目指しました(「正俗調和論」)。

このことが「正義派」に嫌われ、赤禰は捕らわれました。

彼がいかなる弁明に努めようとも、一切聞き入れられず、慶応2年(1866年)に処刑されてしまいます。

こちらは享年29。

赤禰は、松下村塾生として師である吉田松陰の教えを受け、熱心に活動したにも関わらず、「俗論派」との調和を願ったばかりに、歴史から消えかけたのです。

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特に、山県有朋には徹底的に嫌われました。

山県は赤禰の実績をも排除し、完全に抹殺しかけたほどです。

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実際、戦前に編纂された幕末史の書物からは露骨なまでに排除。

このように「正義派」視点でしか、幕末の長州藩を語ることはできなかったのです。

 

今なおその影響力が残っている

「正義派」こそカッコいいし大正義という歴史観は、確かにスッキリするかもしれません。

しかし、その陰で不当な扱いを受ける「俗論派」や赤禰を無視してよいのでしょうか?

こうした歴史観は、戦前の大衆娯楽にまで影響を与えました。

そして現在も消えたとは言えません。

2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』では、椋梨藤太(むくなし とうた)がその被害者となりました。

俗っぽく底の浅い人物として、セレブ系にされたその妻ともども、悪役とされておりました。

椋梨の家にヒロインの文が乗り込み、夫・久坂玄瑞を戦死するような目に遭わせたのはあんたらか、と絶叫し始めたのです。

「いや、椋梨のせいじゃねえし!」

そう突っ込んだ幕末ファンは多かったのでは?

むしろ椋梨は、久坂らが武装して京都に乗り込むことを止める側じゃないですかね……とツッコミどころがありすぎで頭が痛く……。

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戊辰戦争では、敗れた側にも言い分や正義がある――とされたドラマは存在します。

『新選組!』や『八重の桜』です。

一方で、長州藩の「俗論派」は『花燃ゆ』レベルの扱いです。

このまま主人公に罵倒され、「功山寺で決起した高杉晋作にボコられたぜ、ざまぁ」扱いで済まされ続けるのかと思うと、切ないものがあります。

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せめて私たちの頭の中だけでも、彼らを庇いたいとは思いませんか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
家近良樹『もうひとつの明治維新―幕末史の再検討』(→amazon
『国史大辞典』

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