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【武力倒幕】
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他ならぬ薩摩藩も反対していた
薩摩藩が武力倒幕に反対したのは、主に以下の3つの理由からです。
・財政難
・軍事費を出すくらいなら、天災からの復興を優先すべき
・薩摩から出兵先があまりに遠い(京都周辺の藩ではなくなぜ九州の薩摩が出なければいけないのか)
確かに薩摩藩は、慢性的財政難に悩まされておりました。
島津斉興と調所広郷の改革によって持ち直したとはいえ、幕末の動乱の最中、しかもイギリスから大量に武器を買ったわけですから、相当厳しい。
しかも薩摩藩は台風の被害を受けやすく、火災も起きており、桜島の噴火もあります。
天災からの復興支援も、重要な課題でした。
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国元がカツカツなのに、なぜわざわざ遠征してまで戦争をせねばならんのか?
そう言いたくなるのも、無理はないでしょう。。
しかし、それでも武力で倒幕したい。
そう主張した勢力がありました。
・西郷吉之助
・大久保一蔵
・小松帯刀
という当時の若手実力者たちです。
薩摩藩の武力倒幕方針は、彼らによって慶応3年(1867年)5月頃から進められました。
この意思決定に対し、藩主・島津忠義も、その父である島津久光も関与が認められません。
こうした方針決定の際、同席した気配がどうにもないのです。
史実をたどると、幕末藩主の中でも【抜きんでた能力】を持っていたと思われる島津久光ですが、フィクションでは不自然なほどバカ殿扱いされます。
『西郷どん』でもそうですね。
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この低評価、どうにも後世の言い訳のようにも見えてきます。
というのも西郷以下、薩摩藩士の中には、幕末明治にかけて久光の意見を無視したことがありました。
そのことに久光も激怒し、明治以降、不満をあらわにしております。
しかし、維新の英雄たちが主君を無視、怒らせたとそのまんま描くのは非常にまずい。
そこで、久光が極度のバカ殿だから、それもやむなしという方向に誘導したと思われるのです。
薩摩藩の武力倒幕派は、
・手を組んでいた土佐藩
・国元の反対意見
・藩主父子
という大切な存在を無視して、強引な形で決めたことになります。
それが今なお、
【偽勅(ニセモノのの天皇の命令)ではないか?】
と根強くささやかれるのは、こうした不自然な状況が重なったからだとも考えられるからです。
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「薩摩御用盗」が江戸で大暴れ
「倒幕の密勅」を得て錦旗を掲げた西軍は、「鳥羽伏見の戦い」で勝利をおさめ、江戸へ向かいます。
しかし、敵の徳川慶喜は恭順姿勢です。こうなると江戸で戦ができません。
そこで、西郷は一計を案じました。
益満と伊牟田、そして相楽総三が、この密命を受け、江戸でテロを起こすことにしたのです。
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彼らは、放火、強盗、暴行、殺人……そうした凶行を繰り返した挙げ句、「薩摩御用盗だ!」と名乗り、薩摩藩邸に逃げ込みました。しかも、江戸城まで放火されます。
江戸っ子としては「篤姫を取り戻すために薩摩が襲ってきた!」と怒り、同時に恐怖を感じておりました。
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江戸の警備を担当していた庄内藩は、こうした行動を見逃すことはできません。
そして薩摩藩邸を焼き討ち!
伊牟田と相楽はこのとき逃れましたが、益満は幕府側に捕縛されてしまいました。
益満が山岡鉄舟との交渉について行ったのは、こうして捕まっていたからなのでした。
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この報告を聞いて、西郷は大喜びでした。
これで、仕返しという名目で幕府を武力で倒せる――要は、薩摩藩邸焼き討ちへの報復として、江戸攻撃ができると思ったのです。
「江戸城無血開城」をもってして、西郷を平和主義者とみなす解釈もあります。ドラマの『西郷どん』は、誰に対しても優しい西郷隆盛像が見所だったそうです。
そのため、もしかしたら庄内藩が【何もしていない薩摩藩の藩邸】を焼くかもしれません。
そしてこの時点で【慶喜が悪い奴だから武力倒幕やむなし】という西郷どんの誘導も、間違いだとハッキリします。
慶喜がおとなしく降ったのであれば、その時点で拳をおろしてよいのです。
会津藩と庄内藩を攻める理由は、消えなければおかしいのです。
歴史の狭間に消えた男たち
さて、この西郷の密命をこなした益満と伊牟田。
彼らは、幕末史において姿を消してしまいます。
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益満は負傷するものの、そこまで重たい怪我ではなく、かなり不可解な事案です。
彼の命を奪ったものは、傷から入り込んだ破傷風菌であったのです。
正確な死因は、戦傷死で、享年28。
関西方面に逃走していた伊牟田の死は、さらに不可解です。
明治元年(1868年)、京都や大津方面で頻発していた、辻斬り強盗がおりました。
これが伊牟田部下の仕業であるとされ、その責任を負わされ、京都薩摩藩邸で自刃させられてしまうのです。享年37。
こうしてみてゆくと、江戸でのテロルに関わった人物は、非業の死を遂げております。
相楽総三は、偽官軍の汚名を着せられて斬首。
益満休之助は、上野戦争で戦傷死。
伊牟田尚平は、自刃。
彼ら以外に随分と血が流れていることも、お気づきでしょうか。
相楽と行動を共にした赤報隊士。
江戸でのテロルの犠牲となった人々。
上野戦争犠牲者。
京都で発生した辻斬り強盗被害者。
とても無血どころではありませんでした。
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