幕府陸軍

西洋軍装の幕府陸軍歩兵隊と徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

もしも徳川慶喜が戊辰戦争を戦っていたら幕府陸軍歩兵隊は活躍した?

慶応4年(1868年)1月6日は徳川慶喜大坂城を脱出した日です。

家臣たちには「戦え!」と煽っておきながら、己はいち早く戦場からトンズラという前代未聞の逃亡劇を演じるわけですが、もしも慶喜が逃げずに戦いを続けていたら?

そう考えるとき、欠かせない存在がいます。

幕府の陸軍です。

『青天を衝け』はじめ、幕末舞台の大河ドラマには欠かせない存在のはずなのに、現実には「どこにいたっけ?」という扱い。

海軍ならまだしも、幕府の陸軍と聞いて、ぱっとイメージは浮かびにくいでしょう。

今回は、そんな幕府陸軍歩兵隊に着目(トップ画像左・右は徳川慶喜)。

彼らは一体どのような集団だったのか。

本気で戦えば戊辰戦争に勝利することもできたのか?

そんなIFも交えつつ考察してみたいと思います。

 


幕府の軍政改革「講武所」始まる

ペリー黒船来航の翌嘉永7年(1854年)――。

ときの老中首座・阿部正弘による様々な改革(安政の改革)の一環として、軍事操練所が開かれました。

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大地震の影響も受けながら、安政3年(1856年)、築地に講武所を創設。

この師範役には錚々たる面々が揃っています。

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勝海舟の従兄弟であり、無双の剣客と称された男谷精一郎信友(おたにせいいちろうのぶとも)。

「幕末三舟」の一人であり、将軍の護衛をつとめた高橋泥舟

剣術、槍術、弓術、柔術、馬術……まさしく日本の武道の頂点を極めるような名人たちです。

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こう書くと素晴らしいようで、ちょっと違和感があるかもしれません。

目の前に大砲積んだ黒船が来ているのに、個人の武芸が何の役に立つのか。

もちろん、そこも踏まえていて、講武所では「銃隊の調練」を行っています。

ただし、重たい銃を持って、号令をかけて従わせる訓練となると、肝心の旗本たちのやる気が出ませんでした。

結果、講武所での軍事改革は、いきなり暗礁に乗り上げてしまいます。

その理由を考えてみますと……。

・泰平の世が続きすぎた

切腹も扇腹(切ったフリだけして介錯)になっていた時代。そんな時代に旗本に戦うように説得しても、覚悟がなかった。

・教える側の知識もまだ不足している

→軍事カリキュラムを見直しながらの操練となった。

・人材選抜の不備

→知名度の高い名門出身者が揃ってはいたけど、名前だけになりがちだった。

講武所は、どうも実践の強さを最重要視していなかった可能性があります。

腕を振るうチャンス!と胸を躍らせ、抜擢されることに望みをかけていた近藤勇が不採用になっているほどです。

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このように幕府陸軍となる講武所は、決して順風満帆なスタートとは言えませんでした。

 


幕府常備軍歩兵隊の結成

時が文久2年(1862年)になると、軍政改革も本格化します。

軍組織も実に近代的となりますので、ざっと見てみましょう。

重歩兵:銃剣を武器とする歩兵

軽歩兵:銃と刀を装備する歩兵

重騎兵:騎銃(カービン銃)を装備した騎兵

軽騎兵:短槍を持つ騎兵

重野砲隊:12ポンド砲装備

軽野砲隊:6ポンド砲装備

構成員は17歳から45歳まで。

勤務成績による取り立てもあり、まさしく近代軍としての制度が整えられたのです。

軍隊の駐屯都市には、衣食住があり人々が集まってくるため、幕府の歩兵屯所ができると、即座に給食を名乗り出る商家もいました。

経済の活性化に敏感な商人が幕末にもいたんですね。

では、薩摩藩や長州藩はどうだったのか?

幕府が軍政改革を始めた文久年間、この二藩は衝撃を味わっていました。

薩摩藩は薩英戦争。長州藩は下関戦争で辛酸を嘗め、近代軍整備待ったなしの現実を痛感。

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薩摩藩はイギリスと急接近し、武器調達を可能とします。

幕府より急速に軍制改革に取り組んでいました。

 


天狗党の乱で実戦投入されるも

では、改革の末に結成された幕府軍は実際どれほどの強さだったか?

まずは天狗党討伐を見てみましょう。

薩摩藩や長州藩とちがって、水戸藩は机上の空論めいた攘夷をふりかざす傾向を強めていました。

水戸学発祥の地であり、尊王攘夷始点の土地ながら、現実的な対処で大きく出遅れていたのです。

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幕府軍の初戦は、その水戸藩。

と言っても水戸藩そのものではなく、元治元年(1864年)、水戸藩の一派・天狗党の討伐戦に向かいます。

【天狗党の乱】というと、田中愿蔵隊による民間人殺傷放火、武田耕雲斎らによる西上と無惨な処刑ばかりが着目され、筑波山での戦闘はあまり注目されません。

理由はわかります。

天狗党にしても幕府にしても、両軍ともにパッとしなかったのです。

なんせ幕府軍の指揮官がみっともなく逃げた、隠れていた……といった話も残されているほど。

天狗党がゲリラ戦術を駆使したため、幕府軍は攻めきれませんでした。

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戦線が膠着した結果、藤田小四郎は武田耕雲斎と合流、そのまま西上したため、結果、幕府は天狗党を討滅しきれなかったのです。

しかも、です。

天狗党の進軍先では、各藩がこれを迎え撃つことになるのですが、そこでも問題は山積みでした。

突然戦闘に駆り出されたため、諸藩も困惑しており将兵の士気が低い。

こうなれば天狗党の勝利かと思いきや、彼らも悪路や降雪に足を取られ、さらには頼りにしていた徳川慶喜に、まるで裏切られるかのように【討伐令】をくだされてしまいます。

その精神的打撃が大きかったのでしょう。

天狗党は投降せざるを得ない展開となります。顛末を知った大久保利通が「幕府は滅びる」と書き記すような展開でもありました。

幕府陸軍の欠点は、こうして緒戦の時点で明瞭になりました。

・指揮官が無能なため指揮系統が乱れている

→歩兵はそれなりに調練されていたものの、戦場で指揮官が逃走してしまう。士気と指揮能力の低さは大問題。

・思わぬ事態に対応できない

→ゲリラ戦法に手を焼き、天狗党も逃してしまった。

・戦意が低い

→幕府の直轄軍だけでなく諸藩も一様に戦意が低く、敵を殺傷することを厭う気配すら満ちていた。

もはや軍としてのカタチを成してない。そう叱れられても言い訳のしようがない体たらく。

御三家水戸藩の行動が、幕府の弱体化を曝け出してしまうという皮肉な結果でした。

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